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危なくない日記

サブカルチャーと社会学の交差地点

「リア充」の存在について

最近,ちょっとした話題となったこのCM。

 

www.youtube.com

 

「MCニガリ率いる非リア」 v.s. 「教室で騒ぐリア充」という構成なのだが,これを観て「非リアがんばれ!」という気持ちを抱いた人も少なくないだろう(社会学者の本田由紀さんも「非リアかっけー!」とツイートしていた)。自分も「非リアがんばれ!」と思っちゃうタイプの人間なのだが,このCMに対しては少し違和感があった。

 

違和感があったのはリア充の男子生徒が「俺はリア充」というシーンだ。

 

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ん?素朴に「リア充」と自称する人っているのか?

少なくとも自分が今まで出会った人の中で「リア充」を名乗る人と出会ったことはなかった。となると,ここで考えられる可能性としては,自分の周りが「非リア」の人ばかりというもの(悲しいパターン)だが,今回は少し違った仮説を提案してみたい。

 

それは「リア充」は「非リア」による構築物であるという説である。

 

「非リア(充)」を自称する人はたくさんいる。そして彼・彼女らは「非リア」を名乗る際には「リア充」の存在を想定している。しかし,一方で「リア充」を自称するものはいない。だとすると、彼・彼女らの言う「リア充」とは誰のことを指すのだろうか。

 

「(自称)リア充」というものはおらず,「非リア」を自称する人たちの言説においてのみで現れる存在であるならば,「リア充」とは「非リア」によって名指されるもの(=他者執行カテゴリー)以外の何者でもない。換言するなら,「リア充」は「非リア」の発する言説によって立ち現れる構築物にすぎないというわけである(なんなら「非リア」も構築物だが)。リア充」は独立して存在しているのではなく,「非リア」がなんらかの言説を語るときに仮想敵としてその言説のなかに現れてくるものなのだ。

 

リア充/非リア」という構図が何よりも先に用意されていると考えてはいけない。まず「非リア」というカテゴリーが自己執行されることによって,「リア充」が立ち現れてくるのだ。「非リア」は「リア充」に先んずるとでも定義しておこうか。

 

このような思考を推し進めることにどのような利点があるのだろうか。ここでは2つの可能性を指摘しておきたい。

 

第一に,リア充/非リア」という構図を相対化する契機になるのではないか,というものである。「リア充」存在なるものを構築物とみなすことによって,上記の構図が客観的かつ固定的なものであるという見方は揺るがされる。「リア充/非リア」という構図は人々(特に「非リア」を自称する人)の絶え間ない実践(=それを語ること)による不断の達成なのであり,それはその実践を中断することによって容易に崩壊しうる不安定なものなのである。

 

そうは言っても確かに「リア充/非リア」は存在するし,自分はそれに苦しんでいるのだ,そこには確固たるリアリティがあるのだ,と主張する人も少なからずいるだろう。というかほとんどがそうだろう。そうした切実さを無下に扱ったうえで,構築物だって言ってんだろ!とナイーブに主張することは自分にはできないので,自分としては次に挙げる方を推したい。

 

第二に,「非リア」が他人によって分類されるもの(=他者執行カテゴリー)ではなく,自身によって自身を分類するもの(=自己執行カテゴリー)であるという事実によって導き出される可能性がある。とある知人の論文で「おたく」を概念分析したものがあるのだが,ここではその論文の知見を紹介したい。その論文によると,「おたく」というのは当初,他者を分類するカテゴリーであったという。「おたく」という言葉を最初期に用いたといわれている中森明夫は「『おたく』の研究」というテキストのなかで,「おたく」というカテゴリーを観察対象者として他者に付与(=他者執行)しており,それはネガティブなイメージを伴うものであった。しかし,それが宮崎勤事件によって生じたおたくバッシングのなかで自身を分類するもの(=自己執行)へと変化し,それが後に「おたく」をポジティブなものとして(少なくともネガティブな評価を跳ね返すものとして)表象する可能性を開いたという。

 

この知見を踏まえたうえで「リア充/非リア」の話に戻ろう。少なくとも現時点においては冒頭で確認した通り,「非リア」は自身によって自身に付与するもの,つまり自己執行カテゴリーである。そうである以上,そこには「おたく」のときと同様に「非リア」をポジティブなものとして捉える,少なくともネガティブな評価を拒絶する可能性が含まれているのではないか。この記事で主張したいのはこの自己執行カテゴリーの可能性ついてである。

 

「非リア」とはどういった存在か,と規定する権利はそのカテゴリーの自己執行し,かつそのカテゴリーの所有者である「非リア」に委ねられている。そう「非リア」とは一方的に枠にはめられるの者ではなく,カテゴリーを操作し,そのなかで自分たちなりの物の見方を決定する存在なのだ。「非リア」のネガティブさを強調するのではなく,名乗ることによって可能になるポジティブなものに目を向けていこうではないか(その具体例を考えることは難しいが,反・リア充的な音楽や文学というのはたくさんある気がする)。

 

しかし,「非リア」を名乗ることによって,「リア充/非リア」という構図を再生産してしまうということは忘れてはならないが……