何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

「クラスTシャツ,その後」を生きる

明け方,いつものようにダラッと過ごしていたら急にある単語が脳内をかすめていった。「クラスTシャツ」である。なぜ高校を卒業して何年も経った今,急にこの単語を思い出したのか理由は定かではないが,少なくともこの単語は一瞬で自分の感情を激しく揺さぶるという効果を発揮した。「クラスTシャツ……」。口に出してみるとより鮮明に過去の出来事が脳内にフラッシュバックした。それは中学・高校の懐かしい思い出ーー思い出してほっこりする――というよりも,あまり思い出したくなかったタイプのそれに近い。いわゆる「黒歴史」というほどのものではないが,なんとなく積極的に想起することを避けたくなるような性質のものだった。もうすぐ日が昇ろうとしているのに自分の心はどんどん沈んでいった。いや,正確には酷く動揺した。急に眼前に姿を現したこの単語に対して,どのようなスタンスで対応すればよいのか全くわからなかったのである。とにかく落ち着こうと思い,温かいお茶を飲みながら深呼吸をした。すると幾分か平常心に戻ってきた。しかし,まだ心がザワつく。そのザワついた心をさらに安定した状態へと引き戻すために,文章化してしまおうと思いついた。一歩引いた視点から対象化し,観察し,記述すると,あら不思議。まるで他人事のかのように思えてくるのである。現に,ここまで書いてだいぶ気持ちが楽になった。しかし,なぜここまで自分は酷く動揺してしまったのだろうか。

 

クラスTシャツとは,体育祭や文化祭の際にクラスの凝集性を高めるために作る,言わば「そのクラスのユニフォーム」だ。全国各地,どの学校でもそういった文化があるかどうかは定かではないが,少なくとも自分の通っていた学校では毎年,各学級で「クラスTシャツ」を作ることが恒例となっていた。それぞれのクラスでどのようなデザインにするかを話し合い,案がまとまったら業者に発注する。そして数日後,完成品がクラスに届く。それをイベントの際などに着用する。具体的なデザインは各学級によって異なるが,大体のクラスは背面にクラスメイト全員の名前をプリントしていた。

 

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※イメージ

 

もれなく自分のクラスもこのようなデザインだった。クラスの担任の名前に「組」という接尾語をつけて「〇〇組」とプリントしたデザインも多かった。例えば,担任の名前が遠藤だったら「遠藤組」という風に。

 

しかし,冷静に考えてみて欲しい。今だからこそ言えることだが,クラスTシャツのデザインはもれなくダサい。背面にクラス全員の名前がプリントされていることが当たり前のように受容されていたが,よくよく考えてみるとこの発想はとてもダサい。そんなにダサいか?と小首を傾げた人もいるだろが,これをバンドTに例えて考えてみて欲しい。例えば,現在人気沸騰中の[ALEXANDROS]のバンドTシャツの背面にメンバー全員の名前がプリントされていたらどうだろうか。背面に,「川上洋平 磯部寛之 白井眞輝 庄村聡泰」「We love ALEXANDROS」とプリントされているバンドTシャツだ。せっかくのイケメンバンドが台無しである。こんなバンドTシャツは物販で売れ残るどころか,バンドのファンも離れていくだろう。

 

よくあるデザインとして例示した「〇〇組」もまたダサい。意識されていないだろうが,どう考えても暴走族やヤクザ屋さん的な美意識からインスパイアされた感がひしひしと伝わってくる。担任の名前が「〇〇組」と背面にプリントされた服を着ている多数の生徒の姿を思い浮かべて欲しい。他の「組」と争う遠藤組(仮)。後ろでは担任の遠藤先生(仮)が体育祭を見守っている,というか糸を引いているようにしか見えない。もはやヤクザの抗争である,というか担任は遠藤憲一である。

 

加えて,自分の具体的なエピソードもここに挿入しておこう。それは自分が中学1年生の頃――クラスTシャツ初体験――の記憶である。当時,中学1年生だった自分のクラスでは,例の如くクラスTシャツのデザインを決める学級会が開かれた。しかし,クラスTシャツのいろはもわからない我々の話し合いは困難を極めた。どのようなデザインにすればよいのか。成員に共有されたテンプレートが不在なゆえ,各々の思い付きが羅列される。そのような状態だったと思える。やや苦しい状況の中,多数決に多数決を重ねた結果,なんとか意見がまとまってデザインの大枠が見えてきた。話し合いも終盤か,といったタイミングで少し変わったアイディアがとあるクラスメイトから出た。「Tシャツの側面にも文字を入れませんか?」。

 

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Tシャツの側面とは上の図の赤く囲った箇所である。今考えてみると少し変わったデザインだが,当時は特段,違和感は覚えなかった。しかし,恐ろしいのはその後である。

 

「入れる文字は,我等友情永久不滅でどうですか?」

 

今,こんなアイディアが飛び出したら鼻で笑われ,一蹴されるのが関の山であろう。もし,友人の誕生日ケーキを買いに行った際に,店員さんが「我等友情永久不滅って書いておきますね~」と言われたら全力で止めるだろう。しかし,当時は誰も止める者がいなかった。止めようとも思わなかった。結果,自分の初めてのクラスTシャツ(ちなみに黒地)の側面には白い字で「我等友情永久不滅」とプリントされることとなった。20歳を過ぎた今だからこそ言えるが,ひどくあり得ないデザインだ。もはや暴走族の特攻服的なソレである。

 

 

背面には全員の名前

 

担任の名前を入れた〇〇組

 

そして側面は「我等友情永久不滅」

 

 

これをダサくないといえるだろうか。クラスTシャツはダサイ。しかし,なによりも重要なのは,このダサイものを自分は過去に何度か着用しているのである。特段,ダサイとも感じることなしに。その過去は消せない。このことが自分を酷く動揺させた一因となっているのだろう。

 

ここで話を終えてもいいのだが,もう少し「クラスTシャツ」の話題に付き合ってほしい。今までの話は「当時の僕らとクラスTシャツ」であり,言うなればプロローグである。「クラスTシャツって今考えるとデザインはダサイよね~」くらいの話であれば,それは全然,当時のクラスメイトたちとともに語りうることであり,なんなら楽しい笑い話だ。

 

実は,「クラスTシャツ」が真価を発揮するのはこの時点ではない。以下に書き連ねる文章は「クラスTシャツ,その後」である。この局面において「クラスTシャツ」はその存在感を発揮すると,個人的には確信している。そして自分は「クラスTシャツ,その後」への想像力によって,心をかき乱されたのだ。

 

さて,当時何度か着用したクラスTシャツのその後はどうなるのだろうか。

 

クラスTシャツ,その後のパターンとしては経験的に以下の3つのパターンに分類 できる。

 

①処分 ②積極的保管 ③消極的保管

 

それぞれ説明していこう。まず「①処分」であるが,他の着用しなくなった服と同じようになんらかのタイミング(例えば大掃除)で捨てられることを指す。自分は,このパターンに当てはまるのだが,その瞬間を今でもよく記憶している。ふいに衣類ケースの奥から現れるクラスTシャツを目の前にして,自分はどのような表情でそれを捨てればよいのかわからず,少し困惑してしまった。他の衣類とは異なり,当時のクラスメイトの名前が大量にプリントされたTシャツ。側面には例の「我等友情永久不滅」の文字が。その時に自分はすでに高校を卒業し,こうしたデザインがダサイとすでに気づいていたので,処分以外の選択肢は浮かばなかった。しかし,クラスTシャツを捨てるということは,過去の価値観と完全に決別するという意味合いが生じる。過去の価値観との決別を明示的に行うことがクラスTシャツの出現によって強制されている,自分はクラスTシャツに試されている,これはまさに踏み絵の瞬間だ,と自分は直観的に感じ取った。息を整え,クラスTシャツを掴み取り,「エエイ!」とゴミ袋のなかに突っ込んだ。だが,半透明なゴミ袋はその中身を完全には隠さない。ゴミ袋の中に入った数枚のクラスTシャツがこちらを見返していた。なるべくそれを見ないようにし,自分はゴミ袋の口を結び,ゴミ捨て場に持っていった。こうして,自分は過去の価値観と完全に決別した。

 

こうした状況はきっと自分に限ったものではなく,クラスTシャツを着用したことがある人のほとんどが経験したものであろう。その時,みんなはどのような表情をしてクラスTシャツをゴミ袋に突っ込んだのだろうか。過去の価値観と一人で向き合うその瞬間。その時の人々の表情や気持ちを想像すると,とてつもなく心がザワつくのだ。

 

「②積極的保管」について説明しよう。たとえ,タンスの奥からクラスTシャツが出てきたとしても,すべての人が上記したように処分するわけではないだろう。むしろ,取っておこう!と考える人も一定数存在するのではないかと推察される。こうした行動をとる人たちは「①処分」のように過去の価値観を転換するのではなく,それを肯定していく。結果的に,積極的にクラスTシャツを保管するという行動になる。しかし,自分にはこのパターンに対して懸念がある。例えば,夜のコンビニで偶然にも積極的保管者と会ってしまい,さらにはその人がクラスTシャツを着ていた場合,自分はどんな顔をすればよいのだろうか。間違いなく,一瞬,顔が引きつってしまう。自分が捨てたものが目の前に不意打ちのように現れるのだ。捨てたはずの日本人形が枕元に現れるという怪談の王道パターンか。もっと近しい例を挙げるならば,マンガ『ハチミツとクローバー』で野宮が(自分がとうに脱ぎ去ったはずの)「青春スーツ」を着て現れる真山に対して嫌悪感を感じるという構図とも似ている。「青春スーツ」とは概念であり,直接的には観察不可能なものであるのに対して,「クラスTシャツ」とはまさに「青春スーツ」が実体化したものであり,否応なく視界に入ってくるといった点で,より性質が悪い。こうした可能性について考えてみても,自分の心はザワつくのだ。

 

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 ハチクロにおける「青春スーツ

 

最後に「③消極的保管」について述べる。これは,クラスTシャツの存在を完全に忘れており,いまだにタンスの奥にクラスTシャツが眠っている,すなわち消極的に保管されてている,といった状態を指す。このタイプについては,特に何も感じないかと言えば,そんなことはない。今はこのタイプに分類されていようが,いつかは(それがいつになるかは人それぞれであるが)①か②を選ぶ瞬間が訪れる。そのときどちらに転ぶのか。そうした決断を先送りにしている潜在的な層として,③は存在している。③のタイプのことを想像すると,「いつか必ず人はクラスTシャツと向き合わねばならない」ということが逆側から照らされ,より心がザワつくのだ。

 

結局,「①処分」であろうが,「②積極的保管」であろうが,「③消極的保管」であろうが,人は「クラスTシャツ,その後」を生きている。クラスTシャツと関わることは避けられない。こうした文章を書いた自分は,よりそうした関わりを強く意識しながら生きていかねばならないといった状況に陥ってしまった。決別したはずのクラスTシャツの亡霊を背負いながら毎日を生きていく。もしかするとこんな文章を読んでしまったあなたもクラスTシャツの亡霊に取りつかれてしまったかもしれない。とりあえず,タンスの奥底を確認してみましょう?話はそれからだ。