何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

観光地に求める本物感?:京都,まなざし,ロバート秋山

あなたがある土地に観光で訪れたとする。その際にあなたが求めているものとは何か。例えば,その土地でしか見られない自然,歴史的に価値のある建築物,あるいはお祭り。そうしたものを目にしたいという思いは決して珍しいものではなく,きっとどんな人でも心に抱いているものだ。観光で求められているのは「その土地らしさ」であり,作りものではない「本物感」が感じられるものである。

 

数年前に京都へ行ったときのことである。ひとりで八坂通りを歩いていると,美味しそうな湯葉屋さん(?)が目に入った。おそらく地元の出身であろうおばあさんが店先で湯葉を作っている様子を物珍しそうに見ていると「食べてみるかい?」と声をかけられた。お言葉に甘え,湯葉を一切れいただいた。醤油を一滴垂らして食べた湯葉の美味しさは今でも覚えている。だが,湯葉の味以上に強烈に覚えていることがある。それは,湯葉屋さんのおばあさんと交わした会話である。

 

「どこからきはったんですの?」

「あ,沖縄です」

「それはまぁ〜ぬくいとこからきはりなって

 

「ぬくいとこからきはりなって」である。こいつぁマジの京都人だ。「暖かいところから来たんですね」をここまで完璧な京都弁に翻訳できる人はなかなかの人材である。

 

「先の戦争」といえば「応仁の乱

「東京」といえば「田舎の方」

「長居する客」には「お茶漬け」

「暖かいところから来たんですね」は「ぬくいところからきはりなって」

 

この方は必ず京都人の模範解答を叩き出すタイプのおばあさんに違いない。その後もさまざまな京都の観光名所を巡ったが,この発言以上の「本物感」を感じるものには出会えることはなかった。

 

観光社会学者のジョン・アーリは対象をながめる観光客のまなざしを二つに分類している。そのうちの一つがロマン主義的」まなざしである。「ロマン主義的」まなざしとは,典型的には「手つかずの自然美」を求めるそれである。希少で,その土地に根付いていて,なにより「本物感」が感じられるものを目にしたいと考える観光客は,「ロマン主義的」まなざしを抱きながら観光している。この感覚は観光客にとって至極当然のものだと言えるだろう。目にした遺跡が復元だと知った時のがっかり感,口にした名物が離れた工場で作られていると知った時のがっかり感,こうした感覚は「ロマン主義的」まなざしが裏切られたことに由来していると言える。

 

なぜ自分は「ぬくいとこからきはりなって」というたった一言にここまで感激し,今でも記憶に残っているのか。それは京都のおばあさんによって自分の「ロマン主義的」まなざしが充足されたからであろう。他の観光客と同様,自分も「ロマン」を求めて京都に訪れていたというわけだ。

 

 しかし,観光のまなざしはこれだけに尽きるものではない。例えば,渋谷のスクランブル交差点に集う外国人観光客を想起してほしい。彼・彼女らは渋谷に「本物感」を求めて(つまり「ロマン主義的」まなざしを抱いて)来ているわけではない。渋谷に集う観光客たちは,まさにそこが観光スポットであるという事実を拠り所に観光している。誰もいない,もちろん観光客もいない,渋谷のスクランブル交差点を想像してみよう。そんな場所に観光客は訪れるであろうか。こうした人が集まっているから集まるといった観光客の志向を先のアーリは「集合的」まなざしと呼んだ。そこで求められているのは「本物感」ではなく,人がたくさんいるという事実である。われわれは異なる二つのまなざしーーロマン主義的なそれと集合的なそれーーを使い分けながら観光という営みを行なっている。

 

さて,この二種類のまなざしを区分することによって,より面白く理解できるコンテンツがある。

 

youtu.be

 

さあ初日も中日も最終日も

ギリまでいる国際通り

深呼吸して飛び込むのさ

僕だけの場所へ

神 愛 希望 世界のすべて

国際通りは知っている

ガイドブックには頼らないさ

インナーナショナルストリート

ギリのギリまで国際通りにいる

 

ロバート秋山が『ゴットタン』(テレビ東京)の「マジ歌選手権」で披露した国際通りの歌である。歌詞に「ひみつの場所国際通り」「ぼくだけの場所」とあるように,ロバートの秋山は〈国際通り〉を過剰なまでにロマンティックな場所として描きだす。加えて,服装や歌唱法も「沖縄感」が過剰なまでにでも演出されている。まさに「ロマン主義的」まなざしがここでは用いられているのだ。しかし,周知の通り,実際の国際通りは秘密の場所でもなんでもなく,観光客が真っ先に訪れるTHE・観光地である。そこにロマンなどというものは一切なく,そこにあるのは修学旅行生とお土産屋のみである。国際通りとは,まさに人が集まるから集まる,「集合的」まなざしを抱いて訪れる場所だ。「集合的」まなざしを「ロマン主義的」まなざしを持って塗り替える。二つのまなざしのギャップこそがこの歌の「笑いどころ」なのだ。

 

ここで「笑える」という事実が,われわれの観光における二つのまなざしの存在を裏付けている。本物感を求めることだけが観光の醍醐味ではない。「初日も中日も最終日も」「ギリのギリまで」国際通りで楽しむことも,観光の重要な側面なのだ。

 

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国際通りのポンタは沖縄仕様

 

【参考文献】

ジョン・アーリ,1995=2003,「ツーリズムの消費」『場所を消費する』法政大学出版.