マロニーとの適切な距離感
「マロニ~ちゃんっ」
テレビから中村玉緒さんの声が流れる。これが噂の。
自分の地元には鍋にマロニーを入れる風習がない。もちろんマロニーのコマーシャルも流れていない。そういった風習がないからCMをやっていないのか,それともCMが流れないから鍋に入れる文化が根付かなかったのかわからないが,とりあえず自分はマロニーと縁がない文化圏で生活をしていた。
一応,断っておくとまったく知らなかったわけではなく,その存在自体は耳にしたことがあった。関西出身の友人が教えてくれたのだ。鍋にマロニーというものを入れるのだと。その場で画像検索をして見せてくれた。見た目は半透明でスラッとしていて「まるで春雨みたいだ」と思った。そこまで違和感はなかったのだが,唯一気になった点はその友人が「マロニーちゃん」と呼んでいたことだ。
それから数年たち,自分は東京に引っ越した。マロニー文化圏への移住である。そこで冒頭のCMを人生で初めて目にしたのだ。CMが普通に流れていることはもちろん,スーパーに行くと普通に売っているマロニー。それを買い物かごに入れ,普通に鍋に投入する自分。マロニーと自分の距離は一気に縮まった。
だが悲しきかな。自分はマロニーと出会うのが遅すぎた。何せ始めて食べたのはハタチを越えてからだ。自分はマロニーに「ちゃん付け」をすること,すなわち「マロニーちゃん」と呼ぶことをためらってしまう。
もともとマロニー文化圏に住んでいた人たち(先の関西出身の友人も含む)は平然と「マロニーちゃん」と呼ぶ。
「あ,鍋にマロニーちゃん入れよう」
「マロニーちゃん買い忘れた」
「マロニーちゃん美味しいよね」。
当然だ。なぜなら彼・彼女らは幼いころからマロニーと慣れ親しんできたのだから。
例え話をひとつする。
友人Aに幼馴染Mを紹介してもらうとしよう。以前から,自分はAからMの話を聞かされていたので,その存在は知っていた。幼稚園の頃の話。小学校の頃の話。そして思春期を経て今の話。何度も聞かされた。友人Aが口を開くたびにするのは幼馴染Mの話ばかりだ。そんな噂のMと初めてあいまみえるのだ。
適当な喫茶店で友人Aと一緒にコーヒーを飲みながらMを待つ。しばらくしてMが入ってくる。第一印象は,透明感があり,スラっとした素敵な人だった。喫茶店でのおしゃべりは意外なほどに盛り上がり,この日をきっかけに3人でよく遊ぶようになった。相変わらず「Mちゃん」と呼ぶA。一方の自分は「Mさん」だ。時々ちゃん付けをしてみようと試みるが気恥ずかしくなってやめてしまう。自分とMはまだそこまでの仲ではないのだから。
これがせめて3人とも同時期に出会ったのなら自分も「Mちゃん」と呼んでいたのかもしれない。だが幼馴染同士の二人と後から知り合った自分の間にはなにか見えない壁のようなものが感じられ,その壁が見えないフリをして,Aと同じように「Mちゃん」と呼ぶのはなんだかとても不誠実なことのような気がして自分にはできなかった。
あるいはこの出会いが10代のころだったらまた違ったのかもしれない。若さゆえの無神経さで,幼馴染同士と自分という壁も見ず,「Mちゃん」と呼ぶ自分がありありと想像できた。
いくつもの「かもしれない」は,今の自分を照らし出す。過ぎ去った時間を巻き戻すことはできない。一度茹でてしまったマロニーはもう二度と真っすぐにはならないのだ。