何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

厄年でもトランプ

自分は慣習や行事といったものに疎く,まったくもって無頓着である。正月もいつも通りの心境で過ごすし,もちろん初詣なんかにはいかない。この時期だしアレを食べよう(例えば秋だからサンマ)といった気持ちにも全然ならず,フォーシーズン同じようなものを食べ続けている。牛丼とか。

 

季節の行事,国民全員に共有されたそれだけに限らず,もっと小さな、例えば個人個人の誕生日や記念日なんかにも気を払わない。正直,人の誕生日が覚えられないし,誕生日を祝ってどうすんだとすら思ってしまう。まれにいる他人の誕生日をやたら覚えている人に対してはおののいてしまう。語呂合わせとかで記憶するのだろうか。「いつも同じ服の鈴木さん!」といったふうに。ちなみに鈴木さんの誕生日は12月07日である。「い(1)つ(2)も同(07)じ服の」鈴木さんである。誰だろう鈴木さんって。

 

要するに,自分のカレンダーは平たんでのっぺりしているのだ。

 

そのカレンダーには色の付いたペンでの書き込みなどは一切ない。同じような365日,うるう年には366日が並んでいる。一年が終わり,新しくなったカレンダーもこの調子だ。

 

だから当然の如く厄年なんてものは気にしたことがない。

 

ラウントリーという貧困の研究で有名な人がいる。彼はイギリスの貧困層を調査するなかである発見をした。人が生まれてから死ぬまでのなかで貧困になりやすい時期(ライフステージ)というものがあるといったものだ。彼によれば,自身が子どもの時期,子を産み育てる時期,そして老後といった3つの時期に労働者階級は貧困状態に陥りやすいという。もちろんこの知見は彼の手による社会調査によって裏付けられている(現代の日本において妥当するかどうかはさておき)。

 

ラウントリーの知見から考えてみても,人生のなかでしんどい年齢や時期というのは一定の規則性がありうるのだろう。だから「厄年」というのも実はただの迷信めいたものではなく,その規則性を表現したもの……なわけがない。ラウントリーは調査をしているし,なによりイギリスの労働者階級といった留保がある。「厄年」には何の根拠もないし,日本国民全員に当てはまるというのはあまりにも強すぎる主張だ。厄払いなんてものも所詮気休めだろう。

 

と厄年に対して一定の距離感を置いてみたが,よく考えてみるとそもそも厄年というのは何歳のこと指すのかということをまったく知らない。今自分は厄年なのかそうでないのか。このままでは人びとの厄年トークについていけないなと思い,厄年について調べてみた。

 

厄年|何歳?男性と女性で違う?厄払いの作法のまとめ

↑参考にしたサイト 

 

まず驚いたのは,厄年とされる年齢は性別によって異なるらしい。そして厄年というのは3回(女性は4回)訪れるらしい。まさかのここでラウントリーの知見との一致を見せた。すごいぞ厄年。

 

男性の場合 25,42,61歳

女性の場合 19,33,37,61歳

 

が厄年にあたるらしい。ただ,これらの年齢(本厄)の前後一年も前厄と後厄にあたり,あまりよくないとされている。例えば男性の場合,25歳(本厄)だけでなく,24歳(前厄),26歳(後厄)も一応厄年に含まれる。

 

個人的にとても気になったのは女性の厄年である。19歳と61歳はさておき,33歳と37歳って。近すぎる。あまりにも近すぎるのだ。

 

つまり,「32歳(前厄),33歳(本厄),34歳(後厄)」で厄が空けたと思いきや,すぐさま「36歳(前厄),37歳(本厄),38歳(後厄)」がやってくるのだ。あまりにも早すぎる。そんな一旦帰ったけど忘れ物したから取りに来ましたみたいなスピード感で戻ってこられても困る。

 

もはや32歳~38歳までの間はほぼほぼ厄年なのだ。なんという仕打ち。厄年の設定はあまりにも酷すぎる。

 

だが,そんな辛すぎる時期のなかで煌々と輝くのが35歳である。厄年が続く時期のなかで,ただ厄年でないというだけなのに,輝きに溢れた一年のように思える。

 

例えるなら受験を終えた高校3年生の3月だ。辛い受験勉強から解放され,忙しい大学生活にもまだ足を踏み入れていない,ただただ無目的に過ごすことが許された唯一の時期。何事にも追われていない時期。この時期に友人と空いた教室でやるトランプが人生で一番楽しいとも言われている。

 

なんと素晴らしいことか。厄年が続くからこそ35歳は輝く。

 

けど,本当は厄年なんていらないのだ。相対的な輝きなんてものはいらない。常に無目的に,何事も追われず,教室でトランプをしていたい。辛い時期があるからこそ輝いてみえるといった言葉もいらない。ただただトランプをしていたいのだ。