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カテゴリー運用のジレンマーー「性同一性障害」と「トランスジェンダー」の間から

LGBT」というのは,レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーの略ですよ,というのは今や周知のことになった。しかし,もともとよく知られていたLGB(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル)と比べ,T(トランスジェンダー)の認知度?は少し低いように思われる。

 

一応補足しておくと,LGBが「セクシャリティ」を指す概念なのに対して,Tは「ジェンダーアイデンティティ」を指す概念である。前者は性の指向(≠嗜好),つまりどの性へと欲望を抱くか,を表すのに対して,後者は性の自認,自分自身の性をどう把握しているのか,ということを表している。そして「トランスジェンダー」とは,いわゆる生物学的な性(=sex)と自身のジェンダーアイデンティティが乖離している状態を指す。

 

今回はLGBではなく,T(トランスジェンダー)について最近考えたことを記しておく。

 

 

少し前まで「トランスジェンダー」よりも,「性同一性障害」という言葉の方が知られていたように思える。しかし,最近ではあまり聞かなくなった。なぜか。

 

その背景の一つとして,DSMにおける名称の変更があると思われる。DSMとはアメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)が作っている精神の病に関する診断基準のことである。ちなみにDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersの略であり,『精神障害の診断と統計マニュアル』と訳される。改訂に改訂を重ね,現在(2016年7月)においては,DSM-5が最新版である。

 

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DSM-4から19年ぶりの改訂であるこの版では,さまざまな変更点があった。例えば,「自閉症スペクトラム」という概念の導入についてはよく知られるところである。 

自閉症の診断基準の改訂と「アスペルガー」カテゴリーの削除について / 井出草平 / 社会学 | SYNODOS -シノドス-参照

 

その最新版において,実は「性同一性障害 Gender Identitiy Disorder」という言葉はない。その代わりに「性別違和 Gender Dysphoria」という名称が用いられている。この変更が「性同一性障害」という言葉の衰退の一因になっているのではないだろうか。

 

※今なお日本精神神経学会では診断名として「性同一性障害」を使用している,という点には留意しなければならない(下記リンク参照)。

www.jspn.or.jp

 

しかし,「性同一性障害」の衰退の代わりに台頭してきた言葉は「性別違和」ではなく「トランスジェンダー」であった,というのは注目に値する。「性同一性障害」や「性別違和」と,「トランスジェンダー」の違いとはなんだろうか。

 

端的に言えば,「性同一性障害」や「性別違和」が医療の言葉なのに対して,「トランスジェンダー」は運動やカミングアウトの際に用いられる言葉である。ここでは,前者を「医療カテゴリー」,後者を「運動カテゴリー」としておこう。

※あるいは「他者執行カテゴリー」と「自己執行カテゴリー」とに分類できるかもしれない。

 

前者の「医療カテゴリー」を用いる,ということはどのようなことを意味するのか。ここでパーソンズの「病人役割」という考え方を援用したい。パーソンズによれば,人々は生きていくなかで病人の役割を学習し,自身が病気になった際に(他者と協力して)病人の役割を「演じる」。この「病人役割」を演じることによって,当事者には権利と義務が与えられる。例えば,「病人(の役割を演ずる人)」は仕事を休む権利が与えられ,また,その病を治療する権利,あるいは健康の回復に向けて努力する義務が与えられる。ここで強調したいのは,「病人」であることによって与えられる権利についてである。「医療カテゴリー」を用いる,ということは自信を「病人」だとみなすことであり,それと同時になんらかの権利を受け取るということを意味する。「性同一性障害」という言葉が「医療カテゴリ―」である以上,そうした権利(あるいは義務)とは無縁でいられない。要するに「性同一性障害」の人=「要治療者」なのだ。

 

しかし,(パーソンズの「病人役割」概念を批判的に継承した)フリードソンが述べるように,病人役割の体験は病気によって異なるという点には注意しなければならない。病気にもさまざまなタイプのものがある。フリードソンは病にも,正当性を有するものと,正当性を有さないもの(=社会的に認められないもの)があると指摘した。例えばインフルエンザとアルコール依存症を比較してみよう。前者は病としてかなりの正当性を有しており,それを患った人は会社を休む権利やむしろ休む義務などが与えられる。かつインフルエンザに罹ったからと言って,社会的に差別されることなどはありえず,またその病気に関して個人が責任を負うことは考えにくい(しょうがないよね,となる)。一方,後者のアルコール依存症の場合,インフルエンザの時のような権利は付与されず,またその病気に対してなんらかの責任を負わされうることも想像できる(お酒を飲み過ぎたその人が悪い,と)。

 

あるいはうつ病について想起してもらうとわかりやすいかもしれない。うつ病こそ,その病気には正当性があるか/否か,ということが争点となりせめぎ合っていることが観察できる事例である。「うつは病気だ(だからしょうがないし治療と休息が必要だ)」という言説と,「いや,甘えだ(だから休む必要なんてない)」という対抗言説のせめぎ合いはいたるところで観察できる。

 

少々くどい説明になってしまったが,ここで強調したいことは,「病気である」ということは権利が付与される一方で,その病気に正当性が備わっていない場合にはなんらかのスティグマ(負の烙印)が付いて回るという至って常識的な事実である。

 

では,いったん話を戻して「性同一性障害」について考えてみよう。「性同一性障害」とはどのような「病気」なのか。もし,この「病気」を患った場合には治療を求める権利が付与されるだろうか。「性同一性障害」に関する治療としては性自認に身体を合わせる「GID手術」というものがある。例えば性自認が「女性」なのにも関わらず身体は「男性」の場合には,精巣の摘出や陰茎の切断,ホルモンの投与などが行われる。こうして身も心も「女性」となった人はMtF(Male to Female)と呼ばれる。しかし,こうしたGID手術にかかる費用は健康保険の対象とはなっておらず,高額な医療費を負担せねばならないというのが現状である。

※高額な医療費を避けるべく,タイなどで比較的安価でGID手術を行うという方法があるようだ

 

性同一性障害」は治療を求める権利をもつ「医療カテゴリー」であるが,その権利は医療保険の対象として認められていないといった意味で,実は他の「病気」と比して十分に正当化されているとは言い難い。つまりその性質はフリードソンのいう「正当性を有さない病気」に近いと言えるだろう。ということはこうした性質により「性同一性市障害」の当事者には,なんらかのスティグマが付与される可能性が残されている。

 

※「病気」と「スティグマ」の関係性についてはもっと精緻な議論が必要であるし,実際になされていると思われるのだが,そのあたりについてはあまり把握できていないので,今回は「病気」はその正当性の度合いによって「スティグマ」が付与されたりされなかったりする,という大雑把な理解で進めさせていただく。もし,このトピックについて認識を改めなければならないような知見が入手できたら書き直すかもしれない。

 

では,「運動カテゴリー」である「トランスジェンダー」の場合はどうであろうか。まず指摘しておきたいのは「運動カテゴリー」の持つ,スティグマを跳ね返す力についてである。「運動カテゴリー」は,他者から与えられたカテゴリーを拒否し,別の言葉を自身に当てはめる場合もあれば,(他者執行の)そのカテゴリーをあえて引き受けたうえで違った意味を持たせるといった場合もある。前者は「沖縄県民」ではなく〈うちなーんちゅ〉だという沖縄アイデンティティの戦略がその例として挙げられるだろうし,後者の例としてはもともと侮蔑的な意味で使われていた「クィア」という言葉をあえて引き受けることによって成立する〈クィア〉スタディーズが挙げられるだろう。別の言葉を提案するにしろ,あえて既存の言葉を用いるにしろ,そこには否定的な意味合いから肯定的な意味合いへといった書き換えがみられる。「運動カテゴリー」によるこの書き換えは,スティグマを無化・弱体化・拒否するといった機能を果たす。

 

しかし,一方でその主張もやり方次第では少し困った帰結を引き寄せてしまう。つぎに確認しておきたいのはこの点である。ここではまた違った例をもとにそのことについて考えてみよう。その検討の対象となるのは「自閉症」の当事者運動である。

 

90年代の後半ごろに「神経多様性 neurodiversity」という言葉が登場した。この言葉は自閉症当事者による運動のなかで用いられるものであり,そこには「自閉症である」という特徴を「神経学的な差異」によって説明しようとする態度が含意されている。ただしこの「差異」に本質的に「優/劣」や「標準/逸脱」といった序列は含まれないというのがポイントである。「黒人/白人」や「女/男」のような差異と「神経系配列A/配列B」の差異は同列に扱われ,よって神経系のあり方から障害である(=標準からの逸脱)ということは言えなくなる。もし一方の神経系配列が「障害」であるとみなすのならば,それは差別であり,繰り返しになるが「自閉症」の神経系の配列と,そうでない配列は等価なのである。

 

このあたりの議論は

○浦野茂,2016,「神経多様性の戦術ーー自伝に      おける脳と神経」酒井泰斗ほか編『概念分析の社会学2ーー実践の社会的論理』ナカニシヤ出版

○フランシスコ・オルテガ,2009,「脳的主体と神経多様性の問題」(野島那津子訳,2015,『現代思想青土社)

を参考にした。

 

この神経多様性による「自閉症」の捉え直しには,従来の「病としての自閉症」という見方を退ける効果がある。しかし,この動きを見る際に注意しなければならないのは,全ての「自閉症」当事者がこのような主張に賛同しているわけではないということである。賛同しない当事者は,「自閉症」が脱-医療化されることによって治療費や保険面での優遇が受けられなくなることを危惧している。なぜなら,「自閉症」は「病気」や「障害」ではなくなるのだから。

 

上に記したような危惧は「トランスジェンダー」にも当てはまる。「トランスジェンダー」というカテゴリーを用いて脱-医療化することによって,確かに「性同一性障害」といったカテゴリーに付随するスティグマを跳ね除けることは可能になるかもしれない。しかしまさにそのことによって「トランスジェンダー」当事者は治療費や保険などにおける措置を受ける権利を失効してしまう。先に述べたようにGID手術は現在の時点においても保険の適応外であるが,そのことを問題化する(=クレイム申し立てを行う)正当性は脱-医療化されたカテゴリー,すなわち「トランスジェンダー 」の手からはこぼれ落ちてしまう。

 

医療化を求めるとスティグマが付随する,スティグマの除去を求めると保険等の配慮を遠ざけてしまう。このジレンマはいかに解消されるのか。残念ながらそれは今の自分にはわからない。よって,今回の記事では上記の問題を提起する地点に留めておきたい。この問題についてはもうしばらく付き合っていきたいと思う。

 

ただ,今のところ考えるヒントは「社会問題の構築主義」の知見にあるのではないかと考えている。なぜならこの分野こそ,「クレイム申し立て」のレトリックを丁寧に分析することを主眼においてきたからである。上記のジレンマをジレンマだと感じさせないようなカテゴリーの運用やレトリックとはどのようなものなのか。また新たな知見を仕入れ次第,この記事の続きを書こうと思っている。