「観念してぼうっとしましょう」ごっごのススメ
かの名作,『ハチミツとクローバー』にこんなセリフが出てくる。
「観念してぼうっとしましょう」
ハチクロには多くの印象的なシーンやセリフが出てくるのだが,自分はこのセリフが特に気に入っている。思いもよらず,東京から札幌行きの寝台列車に乗ってしまった真山とリカさん。札幌までの時間は17時間。しかし,急に列車に乗ることになってしまったため,二人とも荷物も何も持っていない。車窓の外は雨。静かに揺れながら札幌へ向かう車内でリカさんからつぶやくように出たセリフがこれである。
「約17時間……」
「すごいわ……飛行機に乗れば2時間なのにね」
「ノートパソコンも持ってこなかったし資料も事務所だし……」
「お手上げだわ」
「観念してぼうっとしましょう」
羽海野チカ,2005,『ハチミツとクローバー』8巻より
ハチミツとクローバー (8) (クイーンズコミックス―ヤングユー)
- 作者: 羽海野チカ
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2005/08/19
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時間をつぶせるような物が手元になにもないという状況と17時間というあまりにも長すぎる時間が生みだした奇跡のセリフである。低血圧でクールで物静かなリカさんが言うからこそ謎の説得力がある。
しかし,あくまでもこれは2005年ごろだからこそ出てくるセリフであるということも忘れてはならない。それから10年以上経った現在では先のセリフは出てこない。出てくるのはこれらのセリフである。
「観念してツイッターでも見ましょう」
「観念して久しぶりにはてなブログでも更新しましょう」
「観念してApple Musicで落としたけど聴いていない曲でも聴きましょう」
「観念してKindleで買った本でも読みましょう」
「観念して溜まっていたメールでも返信しましょう」
「観念してHuluで『孤独のグルメ』を全シーズン見ましょう」
こんな具合になるだろう。車内に鳴り響く井之頭五郎の独白。せっかくの静かな車内が台無しである。
現代に生きるわれわれはどんなときでも必ずスマートフォンを持ち歩いている。しかもその文明の利器は(おそらく当時リカさんが持っていたような)ガラケーではできない多くのこと,多くの暇つぶしができてしまう。なんてことだ!われわれは「ぼうっとする」権利を奪われてしまったのだ!
そんな「ぼうっとする」権利を奪われてしまった現代人たちにおすすめしているのが,「観念してぼうっとしましょう」ごっこである。その手順は簡単だ。思い切ってスマホを自宅に置いたまま出かける。すきま時間に「ぼうっとする」。以上。あくまでも「ごっこ」なので,スマホを解約するなんてラディカルなことはしない。それはさすがに「ぼうっとする」ためだけに失う物が多すぎる。とりあえず,あえて何も持っていない状態に一時的になってみる。
例えば,スマホを持たないで近くの牛丼屋に行ってみる。もちろん道すがら音楽を聴くことはできない。牛丼屋に着く。注文する。牛丼が届くまでツイッターで時間をつぶす……ことはできない。なぜならスマホが手元にないから。そこで心の中で一言。
「観念してぼうっとしましょう」
これである。自分の心の中のリカさんがつぶやく。この一言のために謎の「ごっこ」遊びをやっているといっても過言ではない(実際に自分はやっている)。
注意していただきたいのが,あくまで「ぼうっと」すること自体を目的にやっているだけなので,ぼんやりすることで新たな発見を……なんてのは1ミリも求めていない。新しい発見をしようとすれば,その時点で頭の中は新たな事柄を見つけ出そうとする意識で満たされ,「ぼうっと」することは失われてしまう。そうなってしまっては本末転倒である。即破門だ。
みなさんもまずは試しにスマホを置いて牛丼屋に行ってみてはいかがでしょうか。そして料理が来るまでの待ち時間に「ぼうっと」してみてはいかがでしょうか。
そう。井之頭五郎のように。
ここ一ヶ月の活動(9月編)
ここ一ヶ月で消費したコンテンツを羅列しておきたいと思います。自身のための記録という意味合いがメインですが,もしかしたら新しい音楽や映画などを探している誰かの参考にもなるかもしれないので。
書いた後しばらくして気づいたけど,これ完全にPOPEYEの橋本愛の連載に影響受けてるな……
【映画】
『寝ても覚めても』
#一番印象深かったのは『寝ても覚めても』。二人の東出くんがそれぞれ違ったヤバさ。主人公の内面がほとんど描かれていないがゆえの不気味さにずっと向き合うのが少し辛かったです。
【本】
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』
- 作者: スラヴォイジジェク,Slavoj Zizek,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 1995/06/01
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スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』
トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク(現代思想ガイドブック)』
#わけあってジジェクを読むことに。ラカンの図式でもって,映画や小説が鮮やかに分析・解釈されます。もう精神分析の理論さえあればなんでも切れるのでは,と思わされます。「象徴界」とか「知っているとされる主体」とか「対象a」とか使いたい。
早島大祐『徳政令:なぜ借金は返さなければならないのか』
#最近読んだ本の中で一番面白かったです。正確には期待水準が低かったのでそれを優に飛び越えてきたという感じ。「徳政令」といえば小学校の歴史でも習うような事柄ですが,よくよく考えてみると「借金帳消し」は現代人の感覚からすると大変不思議なことです。中世の人々の感覚(特に法に対する考え方)が知りたい方にはぜひオススメです。加えて,文章の形式や問いの立て方が上手で,とても参考になりました。
山田克哉『E=mc^2のからくり:エナルギーと質量はなぜ「等しい」のか』
王谷晶『完璧じゃない,あたしたち』
【漫画】
むつき潤『バジーノイズ』①
#スピリッツで連載中のオシャレ音楽漫画がついに単行本化です。音を泡のように表現するのは阿部共実っぽくていいなと思いました。ただ,最近公開された作者のインタビュにはがっかりでしたけど。
『バジーノイズ』むつき潤が語る、ロックマンガへのカウンター - インタビュー : CINRA.NET
施川ユウキ『バーナード嬢曰く』④
柏木ハルコ『健康で文化的な最低限度の生活』⑦
ウィスット・ポンイミット『マムアンちゃん』
【音楽】
IU『A Flower Bookmark, pt.2』
#久しぶりに韓国のポップスを聞きました。あえて少し前の歌謡曲っぽくしているのがかなりオシャレです。J-POPにもこうしたあえてのレトロブームが来そうな予感がします。ヒップホップ界隈ではもうすでに来てるって感じですが。
STUTS『Eutopia』
#前作『Pushin'』に負けないくらいの良作。鎮座DOPENESS &Campanellaによる「Sticky Step」や,KID FRESINO &C.O.S.Aそして忘るまじおじさんこと長岡亮介による「Above the Clouds」が特に気に入っています。
スクービードゥー『CRACKLACK』
Aluna George「Superior Emotion feat. Cautious Clay」
Especia『Wizard』
Especia『GUSTO』
#ウィンドウズ98っぽさというか昔の教育番組の映像というか。90年代から見た未来っぽさを表現するというレトロ志向,すなわちvaporwaveの流れに位置付けられると思います。ただ,それだけではなくて,他の曲は全然異なった側面を覗かせてくれるのがEspeciaの魅力だと思います。ただ数年前に解散してしまったようで残念です。
J Dilla『Donuts』
Mansun『Six』
AmPm「Best part of Us」「Life is」
#Spotifyにてバズって話題になった覆面の日本人アーティストAmPm(アムパム)です。まだアルバムは出ていないようです。シングルを定期的に公開するあたりも,ストリーミングサービス世代のアーティストって感じがします。
showmore『overnight』「1mm」
YMO『BGM』
Marvin Gaye『What's Going On』
808 State『808:88:98』
Tempalay『なんて素晴らしき世界』
#ついにニューアルバムが全曲配信されましたね。これから聴き込むと思います。
それでは。
表裏一体
裏表紙って表現気持ち悪くないですか。
いや、わかってるんですよ。「裏表–紙」ではないことくらい。もし「裏表–紙」だったら話は早い。端的にいって表現の矛盾であり、それは正すべきものである。例えるなら「このコーンポタージュは熱くて冷たい」みたいなもので、ただただ混乱をもたらす表現であるがゆえに、訂正が要請される。「は?どっち?」と問い詰められても何も文句は言えまい。
しかし実際のところ裏表紙はそのような矛盾を孕んだ表現ではない。それは「裏–表紙」であり、そこには矛盾は(少なくとも表面上は)存在しない。「裏表紙」という言葉の「表紙」の部分は、相対的な位置取りとしての「表紙」(裏の裏としての表)という意味は脱色され、しっかりと足場を持ったものとして立ち現れている。なので「裏表紙って矛盾した表現だよね〜」というのは野暮である。「新古今和歌集って古いの?新しいの?」的愚問である。
そうした言葉の事情はじゅうぶんに加味したうえで、「裏表紙」って表現気持ち悪くないですか。
「裏–表紙」と「裏表–紙」のはざまで頭がグルグルしませんか。
日曜日に「来週の水曜日ね」と言ってしまったときのような危うさありませんか(日曜日を週の始まりとみなすかどうか問題)。
ありませんか。そうですか。
よい週末を。
ポップ体のポップじゃない話
ポップ体を憎むあまり、もはや自分の中でその言葉は悪口として通用するようになっている。
「ポップ体みたいな顔しやがって!」
と言えばもう完全なる、しかもかなり強烈な、悪口である。言われた方は、言った側にパンチをお見舞いしても構わない。あるいは道端で泣き崩れていても納得である。「そうか、そんな酷いこと言われたんだね。あまり気にしない方がいいよ」と励ましてあげよう。しかしポップ体みたいな顔とは何か。一言で言えば「道化」のそれである。小学生相手のお知らせプリントで使われるようなやつなんてどうせ間抜けな顔をしているに決まっている。おそらく語尾に「だじょ〜」が付いてくるに違いない。
「モリサワ的な雰囲気してるよね」
これは褒め言葉である。モリサワくんのグループはすごくスマートでイケてる集団だ。どこにいても絵になるので、最近では雑誌の仕事なんかもしているようだ。課金なしではたどり着けないスマートさを醸し出し、それを見ながらわれら游グループの人間はハンカチを噛む。
そして抑圧の委譲先としてMSゴシック・明朝に狙いを定め、彼らを攻撃する。
「MSのやつらってなんかカクカクしてるよね〜」
「なんかスマートじゃな〜い」
「軽いだけが取り柄(笑)」
しかし紙面にプリントアウトされた彼ら(=MS族)を見て、われわれは再びハンカチをキーッと噛むことになる。
「美しい...!」
ま、要は適材適所ってことですな(ポップ体を除く)。
サンプリングの発見ーーEverybody Loves the Sunshine
ヒップホップの楽しみ方というのは,それはもう千差万別で,クラブで踊って楽しんでいる人,怪しげな葉っぱを吸いながら楽しんでいる人,ラッパーとして楽しんでいる人,詩的なリリックを楽しむ人,トラックを作って楽しむ人までさまざまだ。どの楽しみ方も等しく尊い。
そうした数多の楽しみ方のひとつに,サンプリングを発見するというものがある。過去の曲(名曲からマニアックな曲まで)をサンプリングし,トラックを作るヒップホップならではの楽しみ方だといえる。曲を聴きながら「あ,これあの曲のサンプリングか」と気付くのは,この上ない体験だ。シンプルに嬉しいし,少しだけ元ネタに気付けた自分を誇るような気持ちにもなる。
そして,サンプリングされる曲というのにも人気曲がある。その代表格がJames Brownの楽曲たちであるが,彼と彼の曲の話は一旦置いておこう。
あえてFunky Drummerにしました(最近話題なので)。
そんなJBの曲と同じくらい頻繁にサンプリングされるのが,Roy AyersのEverbody Loves the Sunshineだ。
もしかしたらあまりヒップホップに関心のない人でも聞き覚えはあるかもしれいない。個人的には映画,Straight Outta ComptonでDr.Dreがこの曲を聴いていたのがとても印象的だった。
アメリカのヒップホップシーンでは数え切らないほどこの曲がサンプリングされているとのことだ。以下のサイトに詳しい。
サンプリングで甦るロイ・エアーズのグルーヴ~Everybody Loves The Sunshine|ミュージックソムリエ|TAP the POP
海外のシーンに自分が詳しくないことに加え,もうすでにいろいろなされてそうなので,ここでは自分が最近気付いた日本語ラップにおけるEverybody Loves the Sunshineのサンプリングを数曲紹介しておく(メモがてらに)。
BASI「灯台下暗し」
chekmico「Honeymoon feat. jinmenusagi」
OMSB「宜候」
C.O.S.A.「Wassup」
あの、すみません
自分は間違いなく見知らぬ人に話しかけられやすいタイプの人間なのだと思う。
そう思い始めたのは小学校のころ。
「あの、すみません」
振り向くと自転車にまたがった二人の外国人。学校から自宅への道すがら、週に一度くらいのペースで声をかけられることがあった。内容は宗教の勧誘だ。近くの教会で活動しているから今度来てくれよ、と話しかけられる。何度も何度も(その度に違う人物から)勧誘されたが結局一度も教会に行くことはなかった。
付近に住んでいる子どもあるあるなのかと思い、その話を学校の友人にしたこともあったが全然同意を調達できなかった。なぜか自分ばかり勧誘される。自分はそういうタイプの人間なのかもしれないと薄々思い始めた。
「あの、すみません」
中学生、高校生、大学生と年齢を重ねても色々な人(もちろん全員見知らぬ人)からこの言葉をかけられた。
宗教の勧誘はなくなり、そのかわり写真撮影や道案内のお願いが増えた。自分の住んでいた場所が沖縄であったことも大きな理由なのだろう。観光客からの声かけがもっとも多かった。その度に写真を撮ってあげたり、道を教えてあげたりしていた。
一番印象に残っているのは、海ぶどうのカップルである。そのあたりをふらふらと歩いていたら例のごとく「あの、すみません」と話しかけられた。振り向くとカンカン帽とアロハシャツを身につけた観光で来ました感100パーセントのカップル。話を聞いてみると、案の定そのカップルは観光客で、今から海ぶどうを食べに行きたいらしい。しかしどこに行けば海ぶどうが食べられるかわからないため、自分に声をかけてみたという。ただ自分が見る限り、彼氏は食べる気満々だが、彼女の方はそこまで積極的ではない様子だった。一応、海ぶどうが食べられそうな場所を教えてあげたが、彼女の方の気持ちも(勝手に)汲んで「地元の人はほとんど食べないっすよ」とちょいネガティブな情報も付け加えておいた。結局、彼・彼女は海ぶどうを食べたのだろうか。海ぶどうが原因で別れることなんかになってやしないだろうか。
こういうふうに観光客から話しかけられることが多かったのだが、明らかに地元出身の老人や子どもたちからも声をかけられることも割とあった。もちろんそのたびに、懇切丁寧な対応を心がけた。
「あの、すみません」
さすがに驚いたのは京都でこの言葉をかけられたことだ。一人で京都旅行をしているとき、地元の小学生7人組に声をかけられ「動物園ってどうやったらいけますか?」と聞かれた。全然自分の地元じゃないし、行きたい方面とは逆方向だったのだが、地図を見ながら一緒に京都動物園の前まで行ってあげた。やたらとキリンの話をしていたが見られただろうか。
「あの、すみません」
つい先程、久しぶりにこの言葉をかけられた。
ピークの時は月に一度くらいのペースで声をかけれらていたのだが、最近はめっきり減って、半年に一度くらいのペースになっていた。減った理由として考えられるのはスマホの普及だろう。スマホという超便利なツールが常に人々のポケットに入っていることによって、見知らぬ人に話しかけなくても道を調べることができるようになったし(Google Map)、自分たちで写真を撮る手法も広がった(いわゆるセルフィー)。
(自分で勝手に想定しているだけだが)そういう背景もあって、最近はめっきり声をかけられることも減っており、それでもなお話しかけてくるのは世間話がしたいおばあさんか、スマホを持っていないおじいさんだったのだが、今回は珍しく高校生だった。
「写真撮ってもらっていいですか?」
場所はイトーヨーカドーの前の広場。男女混合の高校生が40名ほど集まっている。
「なんの集まり?」
「クラスです!!」
どうやらクラス会の帰りらしい。なるほど確かにこの人数ではセルフィーをすることは難しいかもしれない。もちろん快諾し、クラスの集合写真を撮ってあげた。幾重にも重なった「ありがとうございます」がヨーカードーの前に響き渡る。自分が撮った写真はクラスのLINEグループや各自のインスタなどにアップされ、みんなの思い出として共有されるのだろう。いわゆる青春の1ページというやつだ。
自分が案内した場所や撮ってあげた写真が名前も知らない誰かにとっての思い出になっているのかもしれない。そう思うと名前も知らない人に話しかけられやすいという自分の特徴も悪くないような気がしてきた。
宗教の勧誘だけは勘弁だけど。
冷凍都市に住む妄想人類諸君に告ぐ
東京に住み始めて3年。いろんなことがあって毎日楽しいし,われわれは酔っぱらっていないのだが,あえて嫌な気持ちになってことを書いておこうと思う。
とある都内の学校の面接にて以下のような質問をされた。
面接官「本校の生徒たちのほとんどは東京出身です。履歴書を見る限り,〇〇(自分の名前)さんは沖縄出身のようですが,地方出身であることを活かした授業が求められた場合,どのような授業をしますか?」
また別のタイミング(授業中)では以下のようなやり取りがあった。
生徒「先生は米軍基地についてどう思ってるの?」
自分「いや~今は話したくないな」
生徒「いいじゃん話してよ」
なぜ地方出身であることを活かさねばならんのだ。
なぜ出身地のことを東京の子たちに対して切り売りせねばならんのだ。
地元のことを話したくない,というわけでは決してない。むしろ積極的に話すときの方が多いし,日常的なおしゃべりのなかではそういうことをあまり気にしない。(「この話題はパスで」と言える選択肢が保証されているから)。話すことが避けられない,という状況において話すことを強要される場面がとても嫌なのだ。
加えて重要なのは,そのような場面に東京出身の面接官や生徒らは遭遇しないということだ。彼/彼女らは東京出身であることを活かした授業を求められたり,米軍基地に対する意見の表明を求められたりするのだろうか。
こうした場面に遭遇するたびに「都会出身であるわれわれを楽しませろ」という言外のメッセージを受け取ってしまい,複雑な心境になってしまう。
要するにいつまでたっても「問われる側」なのだ。上京してからというもの,以前と異なり地元アイデンティティというものを意識することが増えたように思える。それはさまざまな場面において問われまくるという経験が一つの要因となっているのだろう。
そのことについてすごく悩んでいるわけでもないが,一応書き記しておこうと思う。これこそが冷凍都市のKU・RA・SHI。