何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

マウンティング・俺らーーマウンティングから脱出することはいかにして可能か

自分は「マウンティング」に興味がある。

「マウンティング」とは,おおまかに,相手よりも優位に立とうとする試みのことを指す。使い古された例で申し訳ないが,「あのバンド売れたんだ~へぇ~(自分は前から知っていたという含み)」などの発話行為がそれにあたる。

上記の例は,「サブカル・マウンティング」と呼ばれるそれに近い。サブカルチャーに関する知識の豊富さによってマウント・ポディションを確保しようとする営みだ。

 

ちなみに「マウンティング」とGoogleで検索すると,真っ先に出てくるのが「マウンティング女子」である。「女性は格付けを行う生き物で~」といったクソみたいなネット記事がたくさん出てきて吐き気をもよおす。「女子の世界はマウンティングだらけで恐いね~w(それに比べ男子の世界は平和だ)」みたいな含みが感じられて極めてファックオフだ。

 

ある時,急に思ったのだが,「女子の世界はマウンティングだらけで恐いね~w」という発話自体が,女性に対する(男性,あるいは名誉男性による)一種のマウンティングになっているのではないだろうか。こうした発話によって「野蛮なマウンティング女子/そうではない平和的な俺ら」という二項対立を構築し,前者(実は藁人形なのだが)を揶揄することによって,後者の「俺ら」が優位に立つ,といった効果がもたらされているのではないか。

 

冒頭で述べたが,自分は「マウンティング」に興味がある。念のため言っておくが,「マウンティング」をしたいわけではない(むしろ避けたい)。「マウンティング」という現象それ自体に興味があるだけだ。

 

しかし,先の「女子の世界はマウンティングだらけで恐いね~w」という「マウンティング」について考えだすと,最終的にその思考の矛先は自分へと向かう。自分は「マウンティング」に言及するという「マウンティング」を行っているのではないか。「マウンティングしてるね~」と語ることによって,マウンティングを行っている人たちよりも優位に立とうとしているのでないか……!

 

“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

ーーいや,ここでは止まらない。

 

〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

ーーまだ,止まらない。

 

「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

ーーまだ。

 

『「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。』と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

〔『「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。』と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〕と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

【〔『「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。』と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〕と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。】と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

……………

………

……

 

我々はマウンティングから自由になることができるのだろうか。

 

ベジタブル・ライフを続けられない僕ら

最近、口内炎ができた。しかも2つだ。毎日、牛丼生活を送っていることによる当然の帰結だと言ってもいいだろう。さらに悪いことに、牛丼生活はその治癒を遅めている。

 

しかしながら野菜を(それも十分な量を!)積極的に摂取するにはコストがかかる。いつもの牛丼セットにサラダをつけるためには100円ちょいを余分に払わなければならなくなるし、100円ちょいを余分に払ったところでせいぜい少量のキャベツが得られるだけだ。

 

そうした状況を打破すべく、自分がとった行動は、野菜ジュースを飲む、というものだ。野菜ジュースはコストパフォーマンスがいい。値段は100円で、牛丼のサラダオプションとほぼ同価格なのにも関わらず、なんと野菜350g相当の栄養が摂取できるという。ちなみに自分が購買しているのはカゴメの「野菜一日これ一本」だ。手軽に購入できる野菜ジュースのなかでは、これが一番栄養価が高い(たぶん)。

 

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さて、野菜ジュースを飲むことによってどのような効果が得られるだろうか。いつも行っている美容室のスタッフは「常飲していたら肌荒れが改善した」という。自分も最近、肌荒れが気になっていたので、そうした効果が得られるととてもありがたい。ついでに口内炎も治したい。そうした効果が本当にあるのか否かはもう少し続けてみなければわからないが、ここでは仮に「効果がある(=健康によい)」としておこう。

 

だとすれば、そうした習慣を続けることが課題となる。何かを続けることは難しい。はっきり言って、自分にはその自信がない。

 

その理由は、野菜ジュースの味......ではない。正直、思っていたよりも味は悪くないし、なんなら少し美味しいとすら感じている。では、なにが問題なのか。

 

例えば、スタバのコーヒーを飲むことが身体に良い効果をもたらすとして、それを毎日飲むことを習慣づけようと思えば、できると思う。なぜなら、端的に言って、スタバのカップを持って街を歩く様子はイカしてる(とされている)からだ。

 

毎日の健康のためにスタバの飲む自分。毎日の習慣なので、ときにはスタバのコーヒーカップを持ちながら街を歩くこともある。街を行き交う人々はそんな自分を見ながら「イカしてんなぁ〜」と内心思い、ツイッターにつぶやく。「今日、街でスタバのカップを持ったイカしたヤング・ボーイを見かけた!」

 

という想像をしながらほくそ笑む自分。これは続けられますわ。

 

しかしながら、野菜ジュースではそうもいかない。みんな野菜ジュースを持つ自分に何の関心も示さない。関心がない以上、認識にものぼらないだろう。アスファルトにこびりつくガムに気づかないのと同じように。

 

お手軽で身体に良いという事実だけでは続けられない。手軽で、身体に良くて、かつ、イカしてるという条件を満たしていなければ自分は野菜ジュースを飲み続けることができないのではないか。

 

では、「野菜ジュース=イカしてる」という枠組みが世に広まればいいのか!そうなれば野菜ジュース生活を続けることが可能になるのか!

 

今までの話の流れからは当然そうした帰結が導きだされるが、そうは問屋がおろさない。多分、自分は「野菜ジュース=イカしてる」という風潮になっても野菜ジュースを飲み続けることはできないような気がしている。

 

先のスタバの例に戻ろう。現時点において、スタバのカップを持って歩くことはイカしてるという風潮はある。しかし、自分はスタバのカップを持ちながら街を歩くことはしていない。なぜか。単純な理由だ。それは「スタバのカップを持つこと」が逆にダサいと感じてしまうからだ。スタバでMacBook開いてドヤ顔(笑)というふうに嘲笑する言説が一時期流行したが、それと同じ感性を自分も(悔しいけれど)共有してしまっている。要するに、「イケてる」と思ってやっていること(特にそれを気合い入れてやっていること)、こそがダサい、という逆張りのメンタリティを悲しきかな自分も身につけてしまったのだ。以前、とある男性ファッション誌で、大学生のモテるための小技特集的なやつが組まれていた。そこでモテ・テクニックとして例に挙げられていたのが、スタバのカップを持ちながら登校だった。自分はそれを見てダッッッサ!と正直思ってしまった。

 

多分、野菜ジュースがイケてる世の中になってもこうした逆張りのメンタリティは発揮され、野菜ジュースを素直に飲み続けることはできなくなってしまうのだろう。結局、野菜ジュースを飲み続けることはできないのだ。どうすればいいんだ......口内炎が痛い........

 

 

 

 

 

 

「クラスTシャツ,その後」を生きる

明け方,いつものようにダラッと過ごしていたら急にある単語が脳内をかすめていった。「クラスTシャツ」である。なぜ高校を卒業して何年も経った今,急にこの単語を思い出したのか理由は定かではないが,少なくともこの単語は一瞬で自分の感情を激しく揺さぶるという効果を発揮した。「クラスTシャツ……」。口に出してみるとより鮮明に過去の出来事が脳内にフラッシュバックした。それは中学・高校の懐かしい思い出ーー思い出してほっこりする――というよりも,あまり思い出したくなかったタイプのそれに近い。いわゆる「黒歴史」というほどのものではないが,なんとなく積極的に想起することを避けたくなるような性質のものだった。もうすぐ日が昇ろうとしているのに自分の心はどんどん沈んでいった。いや,正確には酷く動揺した。急に眼前に姿を現したこの単語に対して,どのようなスタンスで対応すればよいのか全くわからなかったのである。とにかく落ち着こうと思い,温かいお茶を飲みながら深呼吸をした。すると幾分か平常心に戻ってきた。しかし,まだ心がザワつく。そのザワついた心をさらに安定した状態へと引き戻すために,文章化してしまおうと思いついた。一歩引いた視点から対象化し,観察し,記述すると,あら不思議。まるで他人事のかのように思えてくるのである。現に,ここまで書いてだいぶ気持ちが楽になった。しかし,なぜここまで自分は酷く動揺してしまったのだろうか。

 

クラスTシャツとは,体育祭や文化祭の際にクラスの凝集性を高めるために作る,言わば「そのクラスのユニフォーム」だ。全国各地,どの学校でもそういった文化があるかどうかは定かではないが,少なくとも自分の通っていた学校では毎年,各学級で「クラスTシャツ」を作ることが恒例となっていた。それぞれのクラスでどのようなデザインにするかを話し合い,案がまとまったら業者に発注する。そして数日後,完成品がクラスに届く。それをイベントの際などに着用する。具体的なデザインは各学級によって異なるが,大体のクラスは背面にクラスメイト全員の名前をプリントしていた。

 

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※イメージ

 

もれなく自分のクラスもこのようなデザインだった。クラスの担任の名前に「組」という接尾語をつけて「〇〇組」とプリントしたデザインも多かった。例えば,担任の名前が遠藤だったら「遠藤組」という風に。

 

しかし,冷静に考えてみて欲しい。今だからこそ言えることだが,クラスTシャツのデザインはもれなくダサい。背面にクラス全員の名前がプリントされていることが当たり前のように受容されていたが,よくよく考えてみるとこの発想はとてもダサい。そんなにダサいか?と小首を傾げた人もいるだろが,これをバンドTに例えて考えてみて欲しい。例えば,現在人気沸騰中の[ALEXANDROS]のバンドTシャツの背面にメンバー全員の名前がプリントされていたらどうだろうか。背面に,「川上洋平 磯部寛之 白井眞輝 庄村聡泰」「We love ALEXANDROS」とプリントされているバンドTシャツだ。せっかくのイケメンバンドが台無しである。こんなバンドTシャツは物販で売れ残るどころか,バンドのファンも離れていくだろう。

 

よくあるデザインとして例示した「〇〇組」もまたダサい。意識されていないだろうが,どう考えても暴走族やヤクザ屋さん的な美意識からインスパイアされた感がひしひしと伝わってくる。担任の名前が「〇〇組」と背面にプリントされた服を着ている多数の生徒の姿を思い浮かべて欲しい。他の「組」と争う遠藤組(仮)。後ろでは担任の遠藤先生(仮)が体育祭を見守っている,というか糸を引いているようにしか見えない。もはやヤクザの抗争である,というか担任は遠藤憲一である。

 

加えて,自分の具体的なエピソードもここに挿入しておこう。それは自分が中学1年生の頃――クラスTシャツ初体験――の記憶である。当時,中学1年生だった自分のクラスでは,例の如くクラスTシャツのデザインを決める学級会が開かれた。しかし,クラスTシャツのいろはもわからない我々の話し合いは困難を極めた。どのようなデザインにすればよいのか。成員に共有されたテンプレートが不在なゆえ,各々の思い付きが羅列される。そのような状態だったと思える。やや苦しい状況の中,多数決に多数決を重ねた結果,なんとか意見がまとまってデザインの大枠が見えてきた。話し合いも終盤か,といったタイミングで少し変わったアイディアがとあるクラスメイトから出た。「Tシャツの側面にも文字を入れませんか?」。

 

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Tシャツの側面とは上の図の赤く囲った箇所である。今考えてみると少し変わったデザインだが,当時は特段,違和感は覚えなかった。しかし,恐ろしいのはその後である。

 

「入れる文字は,我等友情永久不滅でどうですか?」

 

今,こんなアイディアが飛び出したら鼻で笑われ,一蹴されるのが関の山であろう。もし,友人の誕生日ケーキを買いに行った際に,店員さんが「我等友情永久不滅って書いておきますね~」と言われたら全力で止めるだろう。しかし,当時は誰も止める者がいなかった。止めようとも思わなかった。結果,自分の初めてのクラスTシャツ(ちなみに黒地)の側面には白い字で「我等友情永久不滅」とプリントされることとなった。20歳を過ぎた今だからこそ言えるが,ひどくあり得ないデザインだ。もはや暴走族の特攻服的なソレである。

 

 

背面には全員の名前

 

担任の名前を入れた〇〇組

 

そして側面は「我等友情永久不滅」

 

 

これをダサくないといえるだろうか。クラスTシャツはダサイ。しかし,なによりも重要なのは,このダサイものを自分は過去に何度か着用しているのである。特段,ダサイとも感じることなしに。その過去は消せない。このことが自分を酷く動揺させた一因となっているのだろう。

 

ここで話を終えてもいいのだが,もう少し「クラスTシャツ」の話題に付き合ってほしい。今までの話は「当時の僕らとクラスTシャツ」であり,言うなればプロローグである。「クラスTシャツって今考えるとデザインはダサイよね~」くらいの話であれば,それは全然,当時のクラスメイトたちとともに語りうることであり,なんなら楽しい笑い話だ。

 

実は,「クラスTシャツ」が真価を発揮するのはこの時点ではない。以下に書き連ねる文章は「クラスTシャツ,その後」である。この局面において「クラスTシャツ」はその存在感を発揮すると,個人的には確信している。そして自分は「クラスTシャツ,その後」への想像力によって,心をかき乱されたのだ。

 

さて,当時何度か着用したクラスTシャツのその後はどうなるのだろうか。

 

クラスTシャツ,その後のパターンとしては経験的に以下の3つのパターンに分類 できる。

 

①処分 ②積極的保管 ③消極的保管

 

それぞれ説明していこう。まず「①処分」であるが,他の着用しなくなった服と同じようになんらかのタイミング(例えば大掃除)で捨てられることを指す。自分は,このパターンに当てはまるのだが,その瞬間を今でもよく記憶している。ふいに衣類ケースの奥から現れるクラスTシャツを目の前にして,自分はどのような表情でそれを捨てればよいのかわからず,少し困惑してしまった。他の衣類とは異なり,当時のクラスメイトの名前が大量にプリントされたTシャツ。側面には例の「我等友情永久不滅」の文字が。その時に自分はすでに高校を卒業し,こうしたデザインがダサイとすでに気づいていたので,処分以外の選択肢は浮かばなかった。しかし,クラスTシャツを捨てるということは,過去の価値観と完全に決別するという意味合いが生じる。過去の価値観との決別を明示的に行うことがクラスTシャツの出現によって強制されている,自分はクラスTシャツに試されている,これはまさに踏み絵の瞬間だ,と自分は直観的に感じ取った。息を整え,クラスTシャツを掴み取り,「エエイ!」とゴミ袋のなかに突っ込んだ。だが,半透明なゴミ袋はその中身を完全には隠さない。ゴミ袋の中に入った数枚のクラスTシャツがこちらを見返していた。なるべくそれを見ないようにし,自分はゴミ袋の口を結び,ゴミ捨て場に持っていった。こうして,自分は過去の価値観と完全に決別した。

 

こうした状況はきっと自分に限ったものではなく,クラスTシャツを着用したことがある人のほとんどが経験したものであろう。その時,みんなはどのような表情をしてクラスTシャツをゴミ袋に突っ込んだのだろうか。過去の価値観と一人で向き合うその瞬間。その時の人々の表情や気持ちを想像すると,とてつもなく心がザワつくのだ。

 

「②積極的保管」について説明しよう。たとえ,タンスの奥からクラスTシャツが出てきたとしても,すべての人が上記したように処分するわけではないだろう。むしろ,取っておこう!と考える人も一定数存在するのではないかと推察される。こうした行動をとる人たちは「①処分」のように過去の価値観を転換するのではなく,それを肯定していく。結果的に,積極的にクラスTシャツを保管するという行動になる。しかし,自分にはこのパターンに対して懸念がある。例えば,夜のコンビニで偶然にも積極的保管者と会ってしまい,さらにはその人がクラスTシャツを着ていた場合,自分はどんな顔をすればよいのだろうか。間違いなく,一瞬,顔が引きつってしまう。自分が捨てたものが目の前に不意打ちのように現れるのだ。捨てたはずの日本人形が枕元に現れるという怪談の王道パターンか。もっと近しい例を挙げるならば,マンガ『ハチミツとクローバー』で野宮が(自分がとうに脱ぎ去ったはずの)「青春スーツ」を着て現れる真山に対して嫌悪感を感じるという構図とも似ている。「青春スーツ」とは概念であり,直接的には観察不可能なものであるのに対して,「クラスTシャツ」とはまさに「青春スーツ」が実体化したものであり,否応なく視界に入ってくるといった点で,より性質が悪い。こうした可能性について考えてみても,自分の心はザワつくのだ。

 

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 ハチクロにおける「青春スーツ

 

最後に「③消極的保管」について述べる。これは,クラスTシャツの存在を完全に忘れており,いまだにタンスの奥にクラスTシャツが眠っている,すなわち消極的に保管されてている,といった状態を指す。このタイプについては,特に何も感じないかと言えば,そんなことはない。今はこのタイプに分類されていようが,いつかは(それがいつになるかは人それぞれであるが)①か②を選ぶ瞬間が訪れる。そのときどちらに転ぶのか。そうした決断を先送りにしている潜在的な層として,③は存在している。③のタイプのことを想像すると,「いつか必ず人はクラスTシャツと向き合わねばならない」ということが逆側から照らされ,より心がザワつくのだ。

 

結局,「①処分」であろうが,「②積極的保管」であろうが,「③消極的保管」であろうが,人は「クラスTシャツ,その後」を生きている。クラスTシャツと関わることは避けられない。こうした文章を書いた自分は,よりそうした関わりを強く意識しながら生きていかねばならないといった状況に陥ってしまった。決別したはずのクラスTシャツの亡霊を背負いながら毎日を生きていく。もしかするとこんな文章を読んでしまったあなたもクラスTシャツの亡霊に取りつかれてしまったかもしれない。とりあえず,タンスの奥底を確認してみましょう?話はそれからだ。

近所の人たちのこと

近くのコンビニに行ったらサンタの帽子をかぶっている人がいた。20代くらいの男性でアイスのコーナーを物色していた。今日は12月24日。「クリスマスではしゃんでるだな」と一瞬思ったけど、よくよく見たらモスバーガーの制服を着ていた。

 

うちの近くには毎晩通るたびキャバクラ(だと思われる)の客引きのお姉さんが立っている道がある。男性が通るたびに「今,お暇ですか」的な声かけをやっている。お姉さんには悪いが,自分は毎晩通るたびに無視を決め込んでいる。そして他の通行人も無視を決め込んでいて,お姉さんがお客のキャッチに成功した場面を見た試しがない。けど毎晩立っている。

 

どこの近所にもケータイショップがある。もちろんうちの近くにもある。まだ数えるほどしか利用したことはないが,なぜか毎回特定の店員さんにお世話になっている。一応スーツを着ているがどこかチャラい,言うなればホストっぽい雰囲気のお兄さんだ。そして,自分がよく行く喫茶店(パン屋?)でもそのお兄さんをよく見かける。死んだ目をしながら煙草をふかし,ソシャゲをやっている。

 

近所にスターバックスドトールの両方があることはとても恵まれていることなのだろう。自分はドトールのほうによく行く。すると,毎回同じおじさんと出会う。そのおじさんは,端的に言うと「ヒッピー」みたいな恰好をしている。そしてマリファナの柄がプリントされたタバコケースからタバコを取り出し,火をつけている。中身はラッキーストライクで間違いないと思う。

 

 

自分はその人たちとーー実際におしゃべりをしたことはないけどーー同じ街で暮らしている。

ツバメノートのはなし――あまりに橋本愛的な

突然の告白で申し訳ないが,自分は「ツバメノート」を愛用している。「ツバメノート」と聞いてすぐにピンときた人は多少なりとも文具にこだわりがある人である,ということが予想される。そもそも文具にまったくの興味がない人は,文具の製品名をわざわざ覚えないと考えられるからだ。文章の雲行きがさっそく怪しくなってきたので念のために言っておくが,ここでは別に文具へのこだわりのない人を批判したいわけではない。その人が文具に「こだわり」があろうとなかろうと自分にはあまり関係のないことだし,それは多様性のひとつの現れに過ぎないのだ。

 

話を「ツバメノート」に戻そう。

 

「ツバメノート」とは,ツバメノート株式会社が販売している至って普通のノートだ。一度は目にしたことがある人がほとんどだろう。

 

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どこにでも売っているわけではないけど,入手しづらいということはない。

 

みんなが使っているというわけではないけど,誰も使っていないというわけではない。

 

見栄えがとても良いというわけではないけど,決して悪くはない。

 

そんなノートだ。自分はこのツバメノートをここ数年ずっと使っている。理由は,機能的な面,例えば書きやすさとか,もあるがそれ以上に,上に述べたようなツバメノートの絶妙な立ち位置がとても気に入っているからだ。芸能人で例えるなら誰だろうか。一昔前(『あまちゃん』の放送前後くらい)の橋本愛がちょうどその立ち位置にいたような気がする。

 

知っている人は少なくないけど,みんなが知っているわけではない。

 

邦画でよく起用されるけど,バラエティ番組にはあまりでない。

 

問答無用で可愛いというわけではないけど,割と可愛い。

 

そう。「ツバメノート」はノート界の橋本愛なのだ。もちろん自分は橋本愛が好きだ。『桐島,部活やめるってよ』は自分の知っている映画のなかではオールタイムズベストだし,『あまちゃん』は橋本愛目当てに全話見た。

 

その一方で,巷で一番よく見かけるノートと言えばコクヨの「キャンパスノート」だ。誰もが一度は使ったことがあるだろう。文具コーナーに行くと必ず置いてある。

 

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しかし,自分はこの「キャンパスノート」には惹かれない。なぜならこのノートは皆に知られすぎているからだ。例えるなら「キャンパスノート」はノート界の広瀬すずだ。広瀬すずは間違いなく可愛い。正直『ちはやふる』はとても観たい。しかし,自分は素直に「広瀬すずかわいい!」と言えずに,「それもよりも橋本愛最高!」と言ってしまう性分なのだ。なぜなら,広瀬すずは「キャンパスノート」のように人々の暮らしに浸透しすぎているからだ。夜にノートが足りなくなった高校生はローファーをひっかけ,近所のツタヤさんに行き,お小遣いの一部からキャンパスノートを買い,ついでに今週のONE PIECEを立ち読みし,iPhoneRADWIMPSを聴きながら家に戻り,ツイッターで友達の投稿を眺めながら時々流れてくる広瀬すずの画像をリツイートしていくつかの「いいね!」を稼いだ後,ベッドの枕元に置いてあるミニオンズを横目に健やかな眠りにつくのだろう。

 

そうした生活も悪くない。むしろ好印象すら覚える。だが,それはあまりにも「広瀬すず的」過ぎる。自分はもっと「橋本愛的」なものを欲してしまう。

 

広瀬すずの姿が頭をよぎるが,それを振り払うかのように今日もツバメノートにペンを走らせる。

 

 

 

 

 

「学校の内側」からの抵抗――思い出の解釈

ブログを初めてから数か月が経つ。更新はしばらく止まったままだった。その理由は至ってシンプルで「面倒だった」から。あ,あのテーマについて記事を書こう,と思っても毎回資料を集める段階で匙を投げてしまう。しかしながら,アクセス解析を覗いてみると,意外なことにこんな更新頻度(と志)が低すぎるブログでも毎日数十件のアクセスがあるようなのだ。ウェブ上に広がる無数のブログたちを見ることを常としている人たちが現在の日本にどの程度いるのか想像すらつかないが,それはかなりの人数になるだろうし,その「かなりの人数」に対して,このブログを見てくれているあなたという存在は砂漠のなかの一粒の砂くらい微細なものかもしれないが,数十粒でも集まれば小さな砂山を作ることはできるし,それはそれでとてもありがたいことなのだ。そうして出来上がる小さな砂山は風が吹けばサラサラと崩れてしまうようなものだが,砂山を構成する砂粒たちのため(と言ったら偉そうだがご愛敬)にも,たまにはブログを更新してみようと思った次第だ。(以上、長い言い訳でした)

 

さて,更新しようと意気込んでみたものの,テーマが見当たらない。いや,実を言うとテーマはあるのだ。例えば「新宿東口の歴史」とか「教育の中立性」とか「スキンズとゲイ・カルチャー」とか。しかしながら上記のテーマで記事を書こうと思っても気力が追い付かないし,なによりデータや文献を整理することが極めて億劫だ。

 

では,気力ゼロマンの自分は「いま-ここ」で何が書けるのか。データや文献を使用する記事が面倒ならば,それらを一切用いずに自分の過去の出来事について記述することはどうだろうか。その方向性で悪くない気がしたので,加湿器がせわしなく働きつづける音に気を取られながらも過去の出来事について思い出してみた。何もとっかかりがない状況で過去のエピソードを想起するのは,掴むための石がないボルダリングに挑戦するようでとても難しい作業だったが,幸い,加湿器がお休みに入ったタイミングでexcitingではないがinterestingな出来事をひとつだけ思い出すことができたので,今回はそのことについて書こうと思う。

 

話は自分の高校時代にさかのぼる。

 

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リアル3区とPOLTAのインストアライブに行ってきた

このブログは日々の出来事を綴る日記というよりも,例えば格差社会ローレンツ曲線だとかヒップホップのサンプリングがあの曲だとかどちらかといえば知識の貯蔵庫といった方向性を目指していたのだけど,たまには日記っぽいことも書いておこうと思う。

 

今日は新宿東南口のタワーレコードのインストアライブに行ってきた。出演は「リアル3区」と「POLTA」。自分はもともと「禁断の多数決」というバンドが好きで,先の2つのバンドのボーカルはどちらも一時期「禁断の多数決」のメンバーだった。そうした理由もありインストアライブに赴いたのであった。

 

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まずはリアル3区から。

シンセ&サンプラー&ギターという珍しい構成。まず第一印象として,ゆめ(a.k.a.ローラーガール)の歌が想像以上に力強くてびっくりした。禁断の多数決の頃からは想像できないほどメロディアスでパワフルな歌声は,ドラムとベースが不在(正確には打ち込み)でも「バンドらしさ」を感じさせてくれた。終盤に演奏された「住民税が私を殺す」は自分が大好きなナンバー。「ただ住んでるだけなのに!?」という怒りのメッセージは生で聴く価値あり。ギターソロもかっこよかった。最後はミニアルバムの表題曲でもある「ドンキ行くけどなんかいる?」を演奏。「ヤンキー女子の切ない思いを綴った、バンドにとって初となるラブソング」と聞いてマジかよ!と思っていたが,生で聴くとヤンキー女子特有の準メンヘラ感(仮)をひしひしと感じ,これは紛うことなきラブソングだと納得してしまった。こうした郊外のリアルを歌うバンドがこれからも出てくることを期待している。MVの値札を町中にボムする演出は超COOLなのでオススメ。

 

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つぎにPOLTA。

Youtubeにアップされているライブ動画を見る限り,普段の演奏はギター(尾苗氏),ベース(傑氏),ドラム(サポート)の3ピース構成なのだが,今回はインストアだということもあり,ドラムの代わりにカホンを使っていた。基本的に新譜『HELLO AGAIN』の曲をやっていたが,途中で1stアルバムから「遠くへ行きたい」をやってくれたのがとてもうれしかった。

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新譜のなかでとても印象的だったのが「ロビタ」という曲だ。この曲はアウトロの部分でギターソロがあるのだが,そこで尾苗さんが歪ませたギターを思いっきりかき鳴らす姿がとても楽しそうだった。尾苗さんはギターポップが好きなんだろうなぁ。しかし,ドラムではなくカホンだということもあり少し迫力に欠けていたのが残念だった。これはライブハウスで見るべきだと思った。ちなみに直近のライブは10月らしい。

 

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新譜の『HELLO AGAIN』から「こうじゃこうじゃ」

特典のライナーノーツによれば,イントロのフレーズはモーニング娘の「ラブマシーン」が元ネタとなっているらしい。確かに。

 

「POLTA」と「リアル三区」に共通して感じたことは,両者とも「禁断の多数決」時代よりも生き生きしていたという点である。「禁断の多数決」のときの声をあまり張り上げない歌い方も嫌いではないが,現在のほうがやりたいこと(=歌いたいこと)がやれているといった印象を受けた。これからもこの2つのバンドを応援していきたいと思う。