何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

ツバメノートのはなし――あまりに橋本愛的な

突然の告白で申し訳ないが,自分は「ツバメノート」を愛用している。「ツバメノート」と聞いてすぐにピンときた人は多少なりとも文具にこだわりがある人である,ということが予想される。そもそも文具にまったくの興味がない人は,文具の製品名をわざわざ覚えないと考えられるからだ。文章の雲行きがさっそく怪しくなってきたので念のために言っておくが,ここでは別に文具へのこだわりのない人を批判したいわけではない。その人が文具に「こだわり」があろうとなかろうと自分にはあまり関係のないことだし,それは多様性のひとつの現れに過ぎないのだ。

 

話を「ツバメノート」に戻そう。

 

「ツバメノート」とは,ツバメノート株式会社が販売している至って普通のノートだ。一度は目にしたことがある人がほとんどだろう。

 

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どこにでも売っているわけではないけど,入手しづらいということはない。

 

みんなが使っているというわけではないけど,誰も使っていないというわけではない。

 

見栄えがとても良いというわけではないけど,決して悪くはない。

 

そんなノートだ。自分はこのツバメノートをここ数年ずっと使っている。理由は,機能的な面,例えば書きやすさとか,もあるがそれ以上に,上に述べたようなツバメノートの絶妙な立ち位置がとても気に入っているからだ。芸能人で例えるなら誰だろうか。一昔前(『あまちゃん』の放送前後くらい)の橋本愛がちょうどその立ち位置にいたような気がする。

 

知っている人は少なくないけど,みんなが知っているわけではない。

 

邦画でよく起用されるけど,バラエティ番組にはあまりでない。

 

問答無用で可愛いというわけではないけど,割と可愛い。

 

そう。「ツバメノート」はノート界の橋本愛なのだ。もちろん自分は橋本愛が好きだ。『桐島,部活やめるってよ』は自分の知っている映画のなかではオールタイムズベストだし,『あまちゃん』は橋本愛目当てに全話見た。

 

その一方で,巷で一番よく見かけるノートと言えばコクヨの「キャンパスノート」だ。誰もが一度は使ったことがあるだろう。文具コーナーに行くと必ず置いてある。

 

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しかし,自分はこの「キャンパスノート」には惹かれない。なぜならこのノートは皆に知られすぎているからだ。例えるなら「キャンパスノート」はノート界の広瀬すずだ。広瀬すずは間違いなく可愛い。正直『ちはやふる』はとても観たい。しかし,自分は素直に「広瀬すずかわいい!」と言えずに,「それもよりも橋本愛最高!」と言ってしまう性分なのだ。なぜなら,広瀬すずは「キャンパスノート」のように人々の暮らしに浸透しすぎているからだ。夜にノートが足りなくなった高校生はローファーをひっかけ,近所のツタヤさんに行き,お小遣いの一部からキャンパスノートを買い,ついでに今週のONE PIECEを立ち読みし,iPhoneRADWIMPSを聴きながら家に戻り,ツイッターで友達の投稿を眺めながら時々流れてくる広瀬すずの画像をリツイートしていくつかの「いいね!」を稼いだ後,ベッドの枕元に置いてあるミニオンズを横目に健やかな眠りにつくのだろう。

 

そうした生活も悪くない。むしろ好印象すら覚える。だが,それはあまりにも「広瀬すず的」過ぎる。自分はもっと「橋本愛的」なものを欲してしまう。

 

広瀬すずの姿が頭をよぎるが,それを振り払うかのように今日もツバメノートにペンを走らせる。

 

 

 

 

 

「学校の内側」からの抵抗――思い出の解釈

ブログを初めてから数か月が経つ。更新はしばらく止まったままだった。その理由は至ってシンプルで「面倒だった」から。あ,あのテーマについて記事を書こう,と思っても毎回資料を集める段階で匙を投げてしまう。しかしながら,アクセス解析を覗いてみると,意外なことにこんな更新頻度(と志)が低すぎるブログでも毎日数十件のアクセスがあるようなのだ。ウェブ上に広がる無数のブログたちを見ることを常としている人たちが現在の日本にどの程度いるのか想像すらつかないが,それはかなりの人数になるだろうし,その「かなりの人数」に対して,このブログを見てくれているあなたという存在は砂漠のなかの一粒の砂くらい微細なものかもしれないが,数十粒でも集まれば小さな砂山を作ることはできるし,それはそれでとてもありがたいことなのだ。そうして出来上がる小さな砂山は風が吹けばサラサラと崩れてしまうようなものだが,砂山を構成する砂粒たちのため(と言ったら偉そうだがご愛敬)にも,たまにはブログを更新してみようと思った次第だ。(以上、長い言い訳でした)

 

さて,更新しようと意気込んでみたものの,テーマが見当たらない。いや,実を言うとテーマはあるのだ。例えば「新宿東口の歴史」とか「教育の中立性」とか「スキンズとゲイ・カルチャー」とか。しかしながら上記のテーマで記事を書こうと思っても気力が追い付かないし,なによりデータや文献を整理することが極めて億劫だ。

 

では,気力ゼロマンの自分は「いま-ここ」で何が書けるのか。データや文献を使用する記事が面倒ならば,それらを一切用いずに自分の過去の出来事について記述することはどうだろうか。その方向性で悪くない気がしたので,加湿器がせわしなく働きつづける音に気を取られながらも過去の出来事について思い出してみた。何もとっかかりがない状況で過去のエピソードを想起するのは,掴むための石がないボルダリングに挑戦するようでとても難しい作業だったが,幸い,加湿器がお休みに入ったタイミングでexcitingではないがinterestingな出来事をひとつだけ思い出すことができたので,今回はそのことについて書こうと思う。

 

話は自分の高校時代にさかのぼる。

 

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リアル3区とPOLTAのインストアライブに行ってきた

このブログは日々の出来事を綴る日記というよりも,例えば格差社会ローレンツ曲線だとかヒップホップのサンプリングがあの曲だとかどちらかといえば知識の貯蔵庫といった方向性を目指していたのだけど,たまには日記っぽいことも書いておこうと思う。

 

今日は新宿東南口のタワーレコードのインストアライブに行ってきた。出演は「リアル3区」と「POLTA」。自分はもともと「禁断の多数決」というバンドが好きで,先の2つのバンドのボーカルはどちらも一時期「禁断の多数決」のメンバーだった。そうした理由もありインストアライブに赴いたのであった。

 

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まずはリアル3区から。

シンセ&サンプラー&ギターという珍しい構成。まず第一印象として,ゆめ(a.k.a.ローラーガール)の歌が想像以上に力強くてびっくりした。禁断の多数決の頃からは想像できないほどメロディアスでパワフルな歌声は,ドラムとベースが不在(正確には打ち込み)でも「バンドらしさ」を感じさせてくれた。終盤に演奏された「住民税が私を殺す」は自分が大好きなナンバー。「ただ住んでるだけなのに!?」という怒りのメッセージは生で聴く価値あり。ギターソロもかっこよかった。最後はミニアルバムの表題曲でもある「ドンキ行くけどなんかいる?」を演奏。「ヤンキー女子の切ない思いを綴った、バンドにとって初となるラブソング」と聞いてマジかよ!と思っていたが,生で聴くとヤンキー女子特有の準メンヘラ感(仮)をひしひしと感じ,これは紛うことなきラブソングだと納得してしまった。こうした郊外のリアルを歌うバンドがこれからも出てくることを期待している。MVの値札を町中にボムする演出は超COOLなのでオススメ。

 

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つぎにPOLTA。

Youtubeにアップされているライブ動画を見る限り,普段の演奏はギター(尾苗氏),ベース(傑氏),ドラム(サポート)の3ピース構成なのだが,今回はインストアだということもあり,ドラムの代わりにカホンを使っていた。基本的に新譜『HELLO AGAIN』の曲をやっていたが,途中で1stアルバムから「遠くへ行きたい」をやってくれたのがとてもうれしかった。

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新譜のなかでとても印象的だったのが「ロビタ」という曲だ。この曲はアウトロの部分でギターソロがあるのだが,そこで尾苗さんが歪ませたギターを思いっきりかき鳴らす姿がとても楽しそうだった。尾苗さんはギターポップが好きなんだろうなぁ。しかし,ドラムではなくカホンだということもあり少し迫力に欠けていたのが残念だった。これはライブハウスで見るべきだと思った。ちなみに直近のライブは10月らしい。

 

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新譜の『HELLO AGAIN』から「こうじゃこうじゃ」

特典のライナーノーツによれば,イントロのフレーズはモーニング娘の「ラブマシーン」が元ネタとなっているらしい。確かに。

 

「POLTA」と「リアル三区」に共通して感じたことは,両者とも「禁断の多数決」時代よりも生き生きしていたという点である。「禁断の多数決」のときの声をあまり張り上げない歌い方も嫌いではないが,現在のほうがやりたいこと(=歌いたいこと)がやれているといった印象を受けた。これからもこの2つのバンドを応援していきたいと思う。

 

格差社会について――ローレンツ曲線とジニ係数を読み解く

2006年の流行語大賞(※)にもノミネートされた「格差社会」。この言葉が登場してから10年近く経った今でも頻繁に用いられているのは,現状を指し示す言葉としてのリアリティを持ち合わせているからだろう。

※ちなみにこの年の大賞は「イナバウアー」。感慨深い。

 

つまり「現在は格差社会である」と言えば,ある一定の同意は得られることが予想される(もちろん「そんなことない」と反論する人もいるだろうが)。

 

しかし,本当に格差社会と言えるのか?どのようにすれば格差社会を実証できるのか?そこで参考になるのが,「ローレンツ曲線」と「ジニ係数」である。今回はこれらの指標を用いて「格差社会」を実証していく。

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学習指導要領の改訂について――年表から読み解く

学校の先生(=教員)になるためには「教員採用試験」を代表とする,各種様々な試験を受けなければならない。そうした試験の科目には「専門教科」(例えば「公民」「数学」「英語」などなど)の他にも「教職教養」というものが設けられている場合が多い。その内容としては,教育史,教育心理,教育法,などがあり,各教科の専門知識というよりは教育全般に関する知識・理解を問うものとなっている。

 

※「教職教養」に「教育社会学」が含まれていないことに対してすごく異議申し立てをしたいのだが,今回はその話はおいておく。

 

今回は,「教職教養」を学ぶ上で避けて通れない「学習指導要領」について書こうと思う。「学習指導要領」とは教育課程の基準となるもので,法的拘束力を有している。要するに学校で習うことや学校がすべきことについて書かれたもので,これに基づいて現場の教員は具体的な教育を構想し行う。まぁ,有り体に言ってしまえば「国からのお達し」だ。「教職教養」の試験ではもちろん「学習指導要領」に関する問題も出題される。採用試験で良い点を取るためには,現在の「学習指導要領」の知識はもちろん,過去のものまできちんと知っておかなければならない。そうお気づきかもしれないが,「学習指導要領」は数年おきに改訂されるのだ。この改訂の変遷を勉強するのがものすごくめんどくさい。しかも,自分が持っている「教職教養」の参考書には年表が載っておらず,何年に何回目の改訂があった,というのがイメージしづらいのだ。

 

年表がないのならば作ってしまえ!ということで,年表を作ってみた。

 

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長い……縦に長い……

文部科学省「学習指導要領の経過」時事通信出版局編,2015『教職教養の要点理解』/舞田敏彦さんのツイートなどを参考に作成した。

 

この図を読み解く前にいくつか注意点を挙げておく。まず,この図は「改訂」の年に合わせて作っているため,「実施」される年はまた数年ズレるということだ。例えば,「総合的な学習の時間」が新設された第6次改訂は1998年だが,実施されたのは小・中学校では2002年である。おおまかに「改訂」と「実施」は3,4年程度ズレると考えてほしい。

 

つぎに,高校の改訂は小・中よりも一回分多いということに注意してほしい。これは1955年という中途半端な時期に高校の指導要領が改訂されたことによって生じた現象である。なぜ,1955年に高校の指導要領のみ改訂されたのかということについては,自分の知識外なのでわからない(今後の課題ということにさせていただく)。

 

では,この表を作りながら自分が考えたことを述べていこう。

 

この年表を見れば,改訂の回数と時期がすぐわかる。現在までに「学習指導要領」は7回(高校は8回)改訂されている。同じ「学校」という場所で「教育」を受けたとしても,内容は時期によって異なっているという点に注目していただきたい。自分が経験してきたものだけが唯一の「教育」の姿ではないのだ。そして時期によって姿を変える「教育」は,学習指導要領という国からのお達し,それは法的拘束力をもつ,によってある程度規定されてしまう。1998年の第6次改訂(実施は2002年)の指導要領のもとで学んだ若者を「ゆとり」と呼び,揶揄する人がいるが,彼・彼女らは国によって規定された「教育」の産物であり,よって「ゆとり」当事者を責め立てるのはお門違いというやつだ。さらに言えば「ゆとり」をキーワードとした教育は1977年の第4次改訂の時点でもすでになされている。「ゆとり」という言葉は平成初期にポッと出てきたわけではない。

※そもそも「ゆとり」バッシングにおける「ゆとり」像がどこまで実態を捉えているのかどうか疑問だが。下記リンクを参照。

gendai.ismedia.jp

 

話は変わるが,個人的に面白いと思ったのは,1947年の学習指導要領において「自由研究」という時間が設置されたという点だ。この「自由研究」は1951年の第1次改訂で早々に削除されてしまうのだが,現在も(その起源は忘却の彼方へとなりつつも)夏休みの宿題という形で生き残っている。ではこの「自由研究」とはどのような時間だったのだろうか。当時の資料を引用しておく。

 

自由研究も、新しい教科課程で、はじめてとりあげたものであるが、この時間を、どんなふうに用いて行くかについては、少しく説明を要するかと思う。後に述べるように、(指導法一般参照)教科の学習は、いずれも児童の自発的た活動を誘って、これによって学習がすすめられるようにして行くことを求めている。そういう場合に、児童の個性によっては、その活動が次の活動を生んで、一定の学習時間ではその活動の要求を満足させることができないようになる場合が出て来るだろう。〔中略〕そのような場合に、〔中略〕時としては、活動の誘導、すなわち、指導が必要な場合もあろう。このような場合に、何かの時間をおいて、児童の活動をのばし、学習を深く進めることが望ましいのである。ここに、自由研究の時間のおかれる理由がある。〔中略〕要するに、児童や青年の自発的な活動のなされる余裕の時間として、個性の伸長に資し、教科の時間内では伸ばしがたい活動のために、教師や学校長の考えによって、この時間を用いたいというのであるが、なお、児童が学校や学級の全体に対して負うている責任を果たす一たとえば、当番の仕事をするとか、学級の委員としての仕事をするとか一ために、この時間をあてることも、その用い方の一つといえる。

『学習指導要領 一般編‐試案‐(抄)(昭和二十二年三月二十日)』より引用

 

要するに子どもたちの興味に応じて自由に学習内容を設計するという「新教育※」的な価値観に基づいて設置された時間であるのだが,教師が多少手を貸す(=指導する)ことも意図されているという点に注目してほしい。現在の夏休みの宿題における〈自由研究〉は,こうした子どもたちへの配慮が切り捨てられ完全に自由,悪く言えばほったらかしになっている(そして子どもたちの悩みの種となっている)。夏休みの〈自由研究〉も,当初の「自由教育」のように教師が多少!手を貸すことを含みこんだ設計をすべきではないだろうか。

 

※「新教育」とは,既存の抑圧的な学校教育のあり方に対する批判の運動であり,子どもの自発性を尊重するという特徴がある。

 

他にも上記の年表を作りながら考えたことはあるのだが,長くなりそうなのでこのあたりでやめておこう。最後に次の改訂はいつ頃なのか,という点について記しておこう。

 

これまでのペースをみていくと,おおまかに10年足らずで改訂がなされている。直近の改訂は2008年(平成20年)であるということは,現在(2016年)は改訂から8年が経っていることになる。ということは,次の改訂は今年・来年あたりになると考えられる。そして「実施」も今まで通り「改訂」の3,4年後になるだろう。念のため文部科学省のHPを閲覧してみたが,予想通りのスケジュールであった(下記リンク)。

次期学習指導要領改訂に関する今後のスケジュール(予定):文部科学省

 

次回の改訂によって,どのような方針が打ち出されるのか,「道徳」と「愛国心」はどのように扱われるのか,新科目となる「公共」はどのようなものになるのか,18歳選挙を踏まえて教育と政治の関わりは深くなっていくのか,などなど。これからの学習指導要領の変遷にも注目していきたい。

 

 

 

 

帰省中の悲劇について

実は今,地元に帰省している。自分の地元は超車社会。車が無くてはどこにも行けない。今日はそんな地元の某ショッピングモールに行ってきた,もちろん車で。

 

いつものように車を駐車場に停め,店内をうろつくこと約2時間。そろそろ帰ろうかなと思い,駐車場に戻るとあれれ?少し車の位置がズレている。俺の車だよな?と思い近づくと見知らぬ女性が自分に話しかけてきた。

 

「......あの,この車の持ち主の方ですか?」

 

あ,はい。と返事をするとものすごい勢いで謝られた。どうやら自分がいない間に車をぶつけてしまったらしい。そのことを謝る&事故後の対応のためにめちゃくちゃ暑い駐車場で自分を待っていてくれたようだ。車の位置がズレていたのはぶつけた勢いで少し動いてしまったらしい。

 

とりあえず警察を呼んで,事故の処理をしてもらい,その場は解散となった。車はライトがぶっ壊れていたため動かせず(無灯火になってしまう),レッカー移動してもらった。自分はそのレッカー車に同乗し,自宅まで帰ってきた。大きいトラックに乗ったのは初めてだったので,少し楽しかった。

 

ぶつけてしまった方もすごく良い人っぽかったのでこちらも丁寧な対応をした。当て逃げや逆ギレされないだけマシだし,どうせ保険がおりるので何も問題はない。

 

いや,ひとつだけ困ったことがある。それは今どこにも行けないということだ。車社会のばかやろう。

 

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ぶつけられた車。見事にへこんでいる。

 

 

カテゴリー運用のジレンマーー「性同一性障害」と「トランスジェンダー」の間から

LGBT」というのは,レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーの略ですよ,というのは今や周知のことになった。しかし,もともとよく知られていたLGB(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル)と比べ,T(トランスジェンダー)の認知度?は少し低いように思われる。

 

一応補足しておくと,LGBが「セクシャリティ」を指す概念なのに対して,Tは「ジェンダーアイデンティティ」を指す概念である。前者は性の指向(≠嗜好),つまりどの性へと欲望を抱くか,を表すのに対して,後者は性の自認,自分自身の性をどう把握しているのか,ということを表している。そして「トランスジェンダー」とは,いわゆる生物学的な性(=sex)と自身のジェンダーアイデンティティが乖離している状態を指す。

 

今回はLGBではなく,T(トランスジェンダー)について最近考えたことを記しておく。

 

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