何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

「よそもの」だと感じるのであれば:だがそうだとはいえ

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And if you feel just like a tourist in the city you were born
Then it's time to go
And define your destination
There's so many different places to call home 

 

久しぶりにDeath Cab for Cutieの"You are a Tourist"を聴いていたら,歌詞がめっちゃ良いことに気づいた。

 

「もし生まれた場所でツアリストのように感じるならその時だ」

「ホームなんて別の場所にもある」

 

人間関係で悩んでいる中学生に似たようなことをそれとなく言ったことがある。「無理に周りの人と仲良くする必要はないんだよ」「気の合わない人がいるなら関わる必要なんてないんだよ」「別の人間関係だってあるんだよ」と。決してうわべだけの言葉ではなく,自分としてはかなりの実感を持ったものとして話したつもりだったが,そのあとにこう言われてしまった。

 

「それでも仲良くしなきゃいけないんです」

 

そうなんだよな。大人になってその感覚をすっかり忘れていた。「それでも仲良く」しなきゃいけない。大人(=自分)のアドバイスなんて彼・彼女らには響かない。自分はただそれ見守ることしかできない。

「弁当」に込められた二つの意味

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少し前の曲だがこの曲が大好きである。上京して地元とは距離を取ったとはいえ,時には「地元沖縄感」を感じたくなる。そんなときによく聴くのがこれだ。トラックもリリックも完璧だと思うのだが,唯一気になっていることがあった。それはこの部分である。

 

愛妻弁当を持って家を出るのに

食らわないようにしている弁当と懲役

CHICO CARLITO/一陽来復 feat. CHOUJI, 唾奇(2分4秒の部分)

 

いやいや。なんで「弁当」を2回言うんだよ。ってかせっかくの弁当食えよ。ここさえなければ完璧なのになぁと偉そうに心のなかでツッコミを入れていた。だが結論から先に言えば,このツッコミは完全に的外れなのである。なぜなら「弁当」に込められた2つの意味が理解できていないからである。

 

まず「弁当」の1つ目の意味。それはシンプルにあの食べる弁当である。リリックの「愛妻弁当」の部分がそれに当たる。そしてここからが重要である。「弁当」の2つ目の意味。それは執行猶予のことである。後の方の「弁当」はこちらの意味で使われている。

 

つまり,引用部の解釈は以下のようになる。

 

愛妻弁当は食らう(=食べる)が,執行猶予(=弁当)と懲役は食らわないようにしている」

 

なるほど。うまい。「弁当=執行猶予」というスラングを知っている人ならば一発で理解できたのかもしれないが,自分には知識がないゆえに違和感を感じてしまった(あろうことかツッコミを入れていた)。恥ずかしいかぎりである。

 

今後「弁当」という単語を聞いた時には,2つの可能性を吟味することにしよう。「できたての弁当」とは,執行猶予が与えられたばかりという意味かもしれない。「早弁」とは執行猶予が早まったということかもしれない。

ねじれた季節の楽しみ方

もう2月も終盤に近づいたとはいえ、相変わらずの冬模様である。毎朝出勤前にコートとマフラーで着膨れした自分の姿を鏡で見ることにもうんざりしてきたところだ。まれに気温が10度を超える日でもあれば「今日は暖かいですね〜」とか言ってしまう。冷静になれ。全然寒いぞ。

 

そんな寒空に合う音楽というのは確実にあると思う。少し寂しさを感じさせる音楽はこの時期にマッチする。街中で見かけるヘッドホン・ボーイズ and ガールズの耳元にもきっと冬の音楽が流れているのだろう。

 

その一方で、あえて冬に夏の音楽を聴くという楽しみ方もある。寒さで動きが鈍くなった指でiPhoneを操作して夏の曲を選ぶ。そう遠くない炎天下の情景を想像しながら音楽に身をゆだねる。こうしたことを自分はまれにやってしまう。そして、そのたびに夏がとてつもなく素晴らしい季節だったような気にさせられる。

 

あ〜、少し暑い夜に公園でアイス食べてぇ〜。

あ〜、ざるそば食べて畳で寝っ転がりてぇ〜。

あ〜、車の窓を開けて夏の夜風を感じてぇ〜。

 

などなど。「サマージャム’95」の盛り上がりとともに夏に対する憧憬は高まるばかりである。なぜ今は冬なんだ!あの素晴らしい季節をもう一度!

 

だが、心の隅ではわかっている。実際に夏がやってくるとこうした思いは消えて無くなってしまうということに。むしろ夏になると逆のことを考えてしまうということに。

 

あ〜、寒空の下で温かいコーヒー飲みてぇ〜。

あ〜、冬用のコーディネートを楽しみてぇ〜。

あ〜、さみしい音楽聴いて切なくなりてぇ〜。

 

これは髪を切ると伸ばしたくなり、伸ばしていると切りたくなる心理と完全に同型である。夏は冬が恋しくなり、冬は夏が恋しくなる。身体がそこにないからこそ、その場所を美化して思い焦がれてしまう。

 

夏に夏を満喫することはできないし、冬に冬を満喫することはできない。むしろ夏を満喫できるのは冬で、冬を満喫できるのは夏なのではないか。というわけで冬だからこそ言おう。夏最高。いま最高に夏を楽しんでいる。

 

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「殺鼠剤」を誤読してしまう3つの罠

「殺鼠剤」って読めます?

 

もちろん読み方は「さっそざい」なのだが,自分はこの漢字が大変苦手で必ずといっていいほど誤読してしまう。文系のくせにそんな漢字も読めないのか!とのそしりを免れ得ないが,少しばかり言い訳をさせていただきたい。「殺鼠剤」には誤読を誘発するような3つの罠があるのだ。

 

罠その1 そもそも日常的に使わない

 

そもそも「殺鼠剤」は出現頻度が低い漢字である。おそらく多くの人は(少なくとも自分は)ネズミを殺さねば!という場面にはなかなか遭遇しない。日常的にそうした使命感に駆られているのは,ネズミの害で困っている飲食店,もしくは猫のトムだけなのだ。ゆえに「殺鼠剤」という文字列を目にすることは年に1回あるかどうかといった程度になってしまい,なかなか覚える(=身体に読み方を染み込ませる)ことができない。これがひとつめの罠であり,「殺鼠剤」誤読シンドロームの根本的な原因である。

 

 

罠その2 殺虫剤とネズミの鳴き声のオーバーラップ

 

「殺鼠剤」の出現頻度が低い一方で,これと少し似た漢字はわれわれの生活にしばし登場する。そう「殺虫剤」である。「殺虫剤」は読み方が簡単なことに加え,出現頻度もわりと高い。「殺虫剤」を読めない人・目にしたことがない人というのはなかなか想像しがたいのではないか。だが,そのことが巡りめぐって「殺鼠剤」を誤読させる罠となりうる。「殺鼠剤」という見慣れない文字列をパッと見たときに,同時に想起されるのはあの馴染みぶかい「殺虫剤」である。なので「さっそざい」という読み方よりも先に「さっちゅうざい」というそれがまず脳裏をよぎる。もちろん通常であれば「さっちゅうざい」読みは一瞬で棄却されるのだが,ここでふたつのめの罠が牙を剝く。「殺鼠剤」に含まれる「鼠(ネズミ)」という文字と「さっちゅうざい」の「ちゅう」という文字の親和性はかなり高いのである。お気づきだろうか。「鼠(ネズミ)」が「ちゅう」と鳴くことに。「鼠」といえば「ちゅう」。「ちゅう」といえば「鼠」なのである。この罠によって「殺鼠剤」を「さっちゅうざい」と読んでしまうのも致し方ないことであろう。

 

 

罠その3 窮鼠猫を噛むで「きゅう」の方にいっちゃう

 

人間は反省をする生き物である。そして反省を活かして新たな行為を創出することができる。自分は繰り返される「殺鼠剤」誤読事件を解決すべく,反省に反省を重ね,次のような解決策を思いついた。それは「窮鼠猫を噛む」という言葉を思い出すといったものだ。「きゅうそねこをかむ」というきわめて知名度の高いことわざにおいて「鼠」は「そ」と発音される。それさえ思い出せば「殺鼠剤」=「さつ」+「そ」+「ざい」という勝利の方程式が脳内で完成し,正しい読み方をすることができる。これで解決。

 

と思いきや,ここにも罠が潜んでいた。「殺鼠剤」を眼の前にして「きゅうそ猫を噛む」を思い出したところで,「そ(鼠)」ではなく「きゅう(窮)」の方に引っ張られてしまうのだ。なぜなら,先に乗り越えたはずの「ちゅう」と「きゅう」の音はかなり似通っている。ゆえに再び「さっちゅうざい」という発音が脳裏をかすめ,誤読してしまう。解決策が一度葬ったはずの罠を復活させてしまうとはなんたる皮肉。これでは一生「殺鼠剤」を誤読したままではないか。

 

 「さっそざい」への道のりはまだまだ長そうである。

 

 

 

 

 

音楽と卓越化

美的判断はつねに差異の問題だとブルデューは主張する。〔中略〕音楽の趣味なら、自分が聴くものは多くの点で、聴かないものほどに重要ではないわけだ。コレクションにレディオヘッドのCDが数枚ある、というだけでは充分ではない。セリーヌ・ディオンマライア・キャリーやボン・ジョビを持っていないことも、きわめて重要だ。

ジョセフ・ヒース & アンドルー・ポター『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』p.144

 

「これを聴いている」以上に「これは聴かない」ということが、他者との差異の確保において重要であるという指摘。思い当たる節がありすぎて心が痛い。

 

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 

 

 

観光地に求める本物感?:京都,まなざし,ロバート秋山

あなたがある土地に観光で訪れたとする。その際にあなたが求めているものとは何か。例えば,その土地でしか見られない自然,歴史的に価値のある建築物,あるいはお祭り。そうしたものを目にしたいという思いは決して珍しいものではなく,きっとどんな人でも心に抱いているものだ。観光で求められているのは「その土地らしさ」であり,作りものではない「本物感」が感じられるものである。

 

数年前に京都へ行ったときのことである。ひとりで八坂通りを歩いていると,美味しそうな湯葉屋さん(?)が目に入った。おそらく地元の出身であろうおばあさんが店先で湯葉を作っている様子を物珍しそうに見ていると「食べてみるかい?」と声をかけられた。お言葉に甘え,湯葉を一切れいただいた。醤油を一滴垂らして食べた湯葉の美味しさは今でも覚えている。だが,湯葉の味以上に強烈に覚えていることがある。それは,湯葉屋さんのおばあさんと交わした会話である。

 

「どこからきはったんですの?」

「あ,沖縄です」

「それはまぁ〜ぬくいとこからきはりなって

 

「ぬくいとこからきはりなって」である。こいつぁマジの京都人だ。「暖かいところから来たんですね」をここまで完璧な京都弁に翻訳できる人はなかなかの人材である。

 

「先の戦争」といえば「応仁の乱

「東京」といえば「田舎の方」

「長居する客」には「お茶漬け」

「暖かいところから来たんですね」は「ぬくいところからきはりなって」

 

この方は必ず京都人の模範解答を叩き出すタイプのおばあさんに違いない。その後もさまざまな京都の観光名所を巡ったが,この発言以上の「本物感」を感じるものには出会えることはなかった。

 

観光社会学者のジョン・アーリは対象をながめる観光客のまなざしを二つに分類している。そのうちの一つがロマン主義的」まなざしである。「ロマン主義的」まなざしとは,典型的には「手つかずの自然美」を求めるそれである。希少で,その土地に根付いていて,なにより「本物感」が感じられるものを目にしたいと考える観光客は,「ロマン主義的」まなざしを抱きながら観光している。この感覚は観光客にとって至極当然のものだと言えるだろう。目にした遺跡が復元だと知った時のがっかり感,口にした名物が離れた工場で作られていると知った時のがっかり感,こうした感覚は「ロマン主義的」まなざしが裏切られたことに由来していると言える。

 

なぜ自分は「ぬくいとこからきはりなって」というたった一言にここまで感激し,今でも記憶に残っているのか。それは京都のおばあさんによって自分の「ロマン主義的」まなざしが充足されたからであろう。他の観光客と同様,自分も「ロマン」を求めて京都に訪れていたというわけだ。

 

 しかし,観光のまなざしはこれだけに尽きるものではない。例えば,渋谷のスクランブル交差点に集う外国人観光客を想起してほしい。彼・彼女らは渋谷に「本物感」を求めて(つまり「ロマン主義的」まなざしを抱いて)来ているわけではない。渋谷に集う観光客たちは,まさにそこが観光スポットであるという事実を拠り所に観光している。誰もいない,もちろん観光客もいない,渋谷のスクランブル交差点を想像してみよう。そんな場所に観光客は訪れるであろうか。こうした人が集まっているから集まるといった観光客の志向を先のアーリは「集合的」まなざしと呼んだ。そこで求められているのは「本物感」ではなく,人がたくさんいるという事実である。われわれは異なる二つのまなざしーーロマン主義的なそれと集合的なそれーーを使い分けながら観光という営みを行なっている。

 

さて,この二種類のまなざしを区分することによって,より面白く理解できるコンテンツがある。

 

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さあ初日も中日も最終日も

ギリまでいる国際通り

深呼吸して飛び込むのさ

僕だけの場所へ

神 愛 希望 世界のすべて

国際通りは知っている

ガイドブックには頼らないさ

インナーナショナルストリート

ギリのギリまで国際通りにいる

 

ロバート秋山が『ゴットタン』(テレビ東京)の「マジ歌選手権」で披露した国際通りの歌である。歌詞に「ひみつの場所国際通り」「ぼくだけの場所」とあるように,ロバートの秋山は〈国際通り〉を過剰なまでにロマンティックな場所として描きだす。加えて,服装や歌唱法も「沖縄感」が過剰なまでにでも演出されている。まさに「ロマン主義的」まなざしがここでは用いられているのだ。しかし,周知の通り,実際の国際通りは秘密の場所でもなんでもなく,観光客が真っ先に訪れるTHE・観光地である。そこにロマンなどというものは一切なく,そこにあるのは修学旅行生とお土産屋のみである。国際通りとは,まさに人が集まるから集まる,「集合的」まなざしを抱いて訪れる場所だ。「集合的」まなざしを「ロマン主義的」まなざしを持って塗り替える。二つのまなざしのギャップこそがこの歌の「笑いどころ」なのだ。

 

ここで「笑える」という事実が,われわれの観光における二つのまなざしの存在を裏付けている。本物感を求めることだけが観光の醍醐味ではない。「初日も中日も最終日も」「ギリのギリまで」国際通りで楽しむことも,観光の重要な側面なのだ。

 

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国際通りのポンタは沖縄仕様

 

【参考文献】

ジョン・アーリ,1995=2003,「ツーリズムの消費」『場所を消費する』法政大学出版.