何かにまつわるエトセトラ

確かめにいこう

揃わない靴下のミステリー

靴下が揃わない。

 

約1ヶ月もの間,頭の隅にひっかかっていた悩みである。目の前には,夜空に浮かぶ織姫と彦星の如く,相方と出会うことのできない靴下が2枚ある。1枚は黒の靴下。もう1枚はグレーの靴下。

 

洗濯のタイミングがずれてそうなってしまったのか。洗濯物の山に埋もれているのか。はたまた干しているときに飛んでいってしまったのか。理由はわからないがともかく現状として,揃わない靴下が2枚ある。

 

こうしたことはまれにあるが,たいてい,しばらく放っておいたのちにどこからともなく相方が現れ,2枚揃い,めでたく1足の靴下となる。そうした靴下が黒とグレーで2枚もあるという状況は気になったが,いつものようにしばらく様子を見ることに決めた。

 

しかし,なかなか相方が現れない。黒の靴下も,グレーの靴下もである。

 

そもそも靴下というのはどこか情けなさを漂わせている。靴下は人に履かれた状態こそがあるべき姿であり,そのままの靴下というのは張り合いがなく,クタっとしており,どこか情けない。衣類にもさまざまな物があるが,着用された状態と,そのままの状態のギャップがもっとも大きいのが靴下であろう。

 

少し話題がそれるが,そうしたギャップが小さい衣類ほど,人間は(ただ着るだけでなく)コレクションしたがるのかもしれない。例えば靴や帽子のコレクターは多いが,靴下コレクターというのは寡聞にして知らない。

 

ともかくそのままの靴下というのはどこか情けない。さらに,相方のいない靴下ともなればその様子に拍車がかかる。それぞれの片方はどこにいってしまったのか。早く相方が現れないものか。最悪,相方がいない黒とグレーの靴下を無理矢理,1足としてしまうしかないのか(いやでもそれは流石に……)という状態が約1ヶ月続いた。

 

そして今日。突然その悩みが解決した。それぞれの相方が見つかったわけでない。なんと,相方不在だと思われていた2枚の靴下(黒とグレー)は,実は相方同士だったのである。

 

何気なしにグレーの靴下を手に取ってみたところ,あることに気づいたのだ。これ,裏返しになっているなと。今までグレーの靴下だと思っていた物は,実は黒い靴下が裏返しになった物だったのである。つまり,最初から黒い靴下は2枚揃っていた。揃わない2枚の靴下ではなく,揃った1足の靴下が最初からあったのだ。

 

すぐれたミステリーの条件として「ノックスの十戒」というものがある。そのなかの一つに「犯人は物語の始めに登場していなければならない」という条件がある。そう,犯人(いなくなったはずの黒い靴下)は最初から登場していたのである。

 

いや,犯人は私自身か。靴下に謝る日がくるとは思わなかった。相方のいない靴下は情けないとかいってすみませんでした。

 

 

スマホを忘れただけなのに

スマホを電車に忘れてしまったので、職場から1時間近くかけて飯田橋駅の忘れ物取扱所へ。無事にスマホを受け取りそのまま帰宅、の前にちょっとだけ駅構内から出て外を歩く。薄暗くなったビル群。綺麗に舗装された歩道。闊歩するオフィスワーカーたち。そしてギンレイホール。そうした風景がなんだかとても「都会」っぽく感じられた。考えてみれば、コロナによる外出自粛ムーブメント以降、初めて都心部だった。下町と埼玉の往復生活では決して見られない「都会」っぽい風景がそこにはあり、自分はそれが結構好きだったのだと思い知らされた。そして、そんなことをわざわざ考えてしまう自分は永遠にシティーボーイにはなれないのだなと自嘲する。次の駅から東京メトロの外側だ。明日からまたメトロ圏外の生活が始まる。

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酒がないとオンラインになれない俺ら

少し前に「オンライン飲み会」なるものをした。説明するまでもないが,zoomやskypeなどで通話をしながらお酒を嗜むアレである。covid-19が猛威をふるい,自宅に籠ることを余儀なくされた人間たちの最後の楽しみである。

 

やってみての感想は,シンプルに「これもアリだな」である。居酒屋で飲むよりも安くつくし,自分の家という安心感もあるし,なにより終電を気にしなくてもいい。延々とダラダラくだらない話ができる(だからこそ切り上げるタイミングが難しいのだけど)。また近いうちにやりましょうね,と約束し,今回は切り上げた。

 

しかし,終わったあとにふと考えこんでしまった。お酒を飲む必要性はあるのかと。

 

お酒なしでも十分に楽しめることは想像できる。かつ,お酒があったほうがより楽しくなるということも想像できる。しかし「お酒を飲む」という約束なしに,友人たちをビデオチャットに誘うというイメージがまったくできなかった。ひょっとして我々はお酒を飲むという口実がなくては,オンラインになることができないのではないか。

 

ただし,これはビデオチャットに限った問題(というには大袈裟だけど)ではないのだと思う。大人になってから常々,不満に思っていたのだが,大人は「飲み会」という口実なしに,なんとなく集まり,なんとなく遊ぶということができない。

 

子どもの頃を思い出してみる。なんの口実もなしにただ単に「遊ぶ」約束ができていたではないか。お酒なんかなくても友だちの家や公園,ときには駐車場に集まり,その場で思いついたことをしてきたではないか。いつからだろう。それができなくなってしまったのは。

 

「お酒を飲む」というのはオンライン・オフラインを問わず集まる口実としては優秀である。だがいつの間にか大人たちはこの口実なしに集まることができなくなってしまった。たまには童心に戻り,お酒という口実なしに集まってみるのも面白いかもしれない。

人間とロボットの関係:SFショートムービーNostalgistの感想

とあるきっかけがあって以下の動画をみたのでその感想の記録。

20分弱のSFショートムービーです。面白かったので興味がある方はぜひ。 

 

youtu.be

 

 

 

作品の背景

*原作はダニエル・H・ウィルソンのの短編小説”The Nostalgist”。

 ・”The Nostalgist”の邦訳はない。

*ダニエル・H・ウィルソンは"Robopocalypse"の著者。

 ・邦題は『ロボポカリプス』(角川書店

 ・"Robopocalypse"はスピルバーグ監督が映像化するという話になっていたが,現在延期中。

*邦訳で読める彼の作品,「神モード」はケン・リュウ編『スタートボタンを押してください』に収録されている。

 

 

ストーリー

 古き良き雰囲気の邸宅でチェスをする少年*1と父親らしき人物。少年はチェスの駒をなぜ犠牲にするのかと父親に問い,父親は「大切な物を守るための大いなる犠牲だ」と答える。そこで唐突に父親の視界がブレる。どうやらメガネが壊れたらしい。新しいメガネを買うために外へ出かける父親。少年も外に出たがるが,父親に「外は危険だから」とたしなめられる。

 

 目的地へ向かう父親。メガネの調子は悪くなる一方。メガネの不調と連動して父親の視界に映る風景や人物が,ヴィクトリア朝のイメージから『ブレードランナー』のような退廃的なイメージへと変化していく。どうやら今まで映されてきたものは,メガネが生み出した仮想現実であり,実際の社会は荒れ果てたスラムとなっているということが視聴者にも明らかとなる。

 

 軍の品(おそらく裏のルートで仕入れている)を扱うショップに到着。店番の老人と父親の会話から,先のメガネ(Immersion System 没入装置とでも訳しましょうか)は,もともと軍の開発した代物であるということがほのめかされる。新たなメガネ(没入装置)を手に入れた父親。そのとき,憲兵が現れる。

 

 憲兵に叩きのめされる父親。そこに一人のロボットが登場する。「パパ」と呼ぶロボット。実は可愛らしい息子の姿も外の風景と同様に,メガネによって作り出された仮の姿であったことが判明する。このときの憲兵のセリフから,このロボット=息子は,制御システムが搭載されていない危険なものであるということが推察される。父親に危害を加える憲兵をボコボコにするロボット=息子*2。そのとき水溜りに移った自分の姿をみて,自分自身が人間ではないことに初めて気づく。

 

 父親が家に帰ると物陰に隠れているロボット=息子。「でておいで」「ごめんね」と言いながら抱きしめる父親。「すべて元どおりにしようね」。父親のそのセリフを聞きながら,ロボット=息子は先のチェスを見つめ,胸のリセットボタンを自ら押す。今までの記憶(父親との思い出,自分がロボットであるという事実)はすべて消え去り,もとの状態に戻る。そして涙を流す父親。【終】

 

 感想

 ちょっとした商業施設に行くと,ペッパーくんが子どもとおしゃべりをしているという光景をよく見かけるようになりました。今後,さらに性能を向上させたロボット(それこそ人間とほとんど変わらないようなロボット)が私たちのすぐ隣にいることが当たり前の世の中になっていくでしょう。さて,そのような社会になったとして,私たちとロボットの関係はどういうふうになるのでしょうか。私たちにとって,今よりもよりかけがえのない存在,人間とロボットという違いを乗り越え,心を通わせる存在となるのでしょうか。

 

 この問いかけに対して,”Nostalgist”は明確にノーを突きつけているのだと思います。メガネ(没入装置)をかけた状態であれば,父親と息子=ロボットは,いかにも本物の親子であるかのようになれます。子どもと一緒にボードゲームをし,子どもの絵を家に飾る。そんな「理想的な」状態は確かに可能です。しかし,それはあくまでもメガネというごまかしの装置,さらにロボットが本当に自分のことを人間だと勘違いしているというごまかしのうえに成りたつものなのです。

 

 そうした二重のごまかしが崩壊した後の父親は,ロボットと心を通わせることができなくなってしまいます。終盤のシーンで父親が息子=ロボットに言うセリフは,「ロボットだろうが構わない」,「それでも親子なんだ」といったものではなく,「元の状態に戻してやる」といったものでした。さらに息子=ロボットが最後に父親のメガネを外し,「愛しているよ,パパ」とまさに親子のような言葉を絞りだしたときも,父親の目は閉じられたままでした。ロボットと人間の距離感をまざまざと見せつけられる残酷なシーンだと思います。また,ロボットを見た子どもたちが一目散に逃げだすという中盤のシーンも,この残酷さを補強しています。無垢な存在である子どもたちにとっても,ロボットは到底受け入れることのできない異物なのです。

 

 人間に受け入れられないロボットはどのような行動を起こすのでしょうか。それはまるでチェスにおける駒のような「大いなる犠牲」となる道を選ぶのです。そしてロボット=息子は「自ら」リセットボタン押し,nostalgist(過去に囚われた人)である父親の世界観を守ってあげます。いくら人間と近しい存在になろうとも,ロボットはrobotnik(ロボットの語源,チェコ語で「強制労働者」を意味する)であり,あくまでも人間に使われる(=都合の良い)存在なのです。そこには決して超えることのできない距離感,もっと露骨な言い方をすれば上下関係が横たわっており,ロボットたちはそのことに対して不満を持つこともなく,粛々と「大いなる犠牲」となっていくのです。

 

 そうした意味において”Nostalgist”は,自分にとって都合の悪いできごとを受け入れることのできないnostalgistたちの弱さとそれを献身的に守ってくれるロボットという,人間たちにとってみれば理想的であるが,どこか残酷な未来を描いたものだといえるかもしれません。

*1:サミュエル・ジョスリン。映画『パディントン 』の少年役ですね。

*2:このロボットがなぜ父親の手元にあるのかは謎。軍の開発した物を盗んだのか,それとも自分で開発したのか。

Day Dream Believerはセブンイレブンの夢を見るのか?

www.news24.jp

 

マチのほっとステーション」で「あなたとコンビ」になれても「いい気分」にはなれなかった沖縄県に,ついにセブンイレブンが出店した。これは沖縄県民からすると,かなり(少なくとも200人の行列を作るくらいには)感動的なできごとである。ちなみにお気づきかもしれないが,自分は沖縄県出身・現東京在住の身である。

 

自分が中学生のころ,修学旅行先でこんなことがあった。

 

行き先である長野のスキー場へ向かう観光バスの中。やたらと長時間の移動に辟易しながら窓の外の風景を眺めていると,赤と緑の看板が目に入った。「あれがセブンイレブンか。初めて見たかも」などとぼんやり考えていると,突如クラスメイトの女子数名がはしゃぎ始めた。

 

セブンイレブンだ!!」

「すごい!!」

「初めて見た!!」

 

カシャ。カシャ。カシャ。

 

彼女らはケータイ(当時はガラケーだった)で窓ごしにセブンイレブンの写真を撮り始めた。

 

やめてくれ……

 

地元沖縄にはないものとはいえ,たかがコンビニである。それをあたかも観光名所のように扱うのは,当時の自分にとって恥ずかしいことのように思えた。

 

だけど,その気持ちは少しわからなくもなかった。あの赤と緑に輝くセブンイレブンの看板は,まさに外の世界の象徴であった。例えるなら,ずっと内陸で育ってきた子どもにとっての「海」である。まさかしょっぱい湖が実在するなんて!

 

そんなセブンイレブンが地元に出店したのだ。これは一大事である。あのころ,セブンイレブンの写メをとった彼女らも開店の行列に加わったのだろうか。それともかつてセブンイレブンに夢を抱いた気持ちすら忘れて最寄りのコンビニ行ったのだろうか。

柴犬と自動車

柴犬とかけまして

自動車と解きます

その心はどちらも

 

手元にあってほしいがいざ所有するとなるといろいろとお金や責任その他もろもろの負担が生じるので都合良いのタイミングだけ自分のものにならないかな〜と妄想してしまうでしょう。

「よそもの」だと感じるのであれば:だがそうだとはいえ

youtu.be

And if you feel just like a tourist in the city you were born
Then it's time to go
And define your destination
There's so many different places to call home 

 

久しぶりにDeath Cab for Cutieの"You are a Tourist"を聴いていたら,歌詞がめっちゃ良いことに気づいた。

 

「もし生まれた場所でツアリストのように感じるならその時だ」

「ホームなんて別の場所にもある」

 

人間関係で悩んでいる中学生に似たようなことをそれとなく言ったことがある。「無理に周りの人と仲良くする必要はないんだよ」「気の合わない人がいるなら関わる必要なんてないんだよ」「別の人間関係だってあるんだよ」と。決してうわべだけの言葉ではなく,自分としてはかなりの実感を持ったものとして話したつもりだったが,そのあとにこう言われてしまった。

 

「それでも仲良くしなきゃいけないんです」

 

そうなんだよな。大人になってその感覚をすっかり忘れていた。「それでも仲良く」しなきゃいけない。大人(=自分)のアドバイスなんて彼・彼女らには響かない。自分はただそれ見守ることしかできない。