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危なくない日記

サブカルチャーと社会学の交差地点

親しい人の差別発言

久しぶりに面食らった。身近な人の差別発言を目にしてしまった。

 

【登場人物】
自分(男性),Aさん(女性),Bさん(男性),Cさん(男性)

 

ちなみに全員顔見知りで,ある程度親しさはある。


きっかけはAさんの何気ない発言だった。



Aさん「Bさん(男性)のiPhoneピンクなんですね笑」

自分「……」

 

Cさん「Bさんはゲイなの?笑」

 

自分「……」

 

Bさん「違うし笑,ってか俺セクシャル・マイノリティじゃねぇから!それ差別になるよ?笑」

Cさん「いやいやそういうつもりでいったわけじゃねーから笑笑」

 

自分「……」



お気づきかもしれないが,自分は終始無言「……」なのである。かつ真顔である。A,B,Cさんたちは雑談のなかの面白い一幕といった感じで笑いあっていたのだが,そのなかで自分だけは唯一,沈黙&真顔なのである。

異議申し立てはいくらでも思いついた。例えば,

「男性がピンク使っていることはおかしいことなのか!ピンクは女性のものってか!性と好みの色は関係ないだろ!!」

「なんでそこでゲイ,って話が出てくるんだよ!ゲイ=女性的ってか?ゲイは性指向を表す言葉だし,好みの色と性指向も無関係に決まってんだろ!」
「ってかもしBさんがゲイだったらどうすんだよ(本人は否定していたけど)!アウティングだぞそれ!」
「『そういつつもりじゃなかった笑』って酷すぎるだろ!意図していなかった=差別ではない……そんなわけあるかーーい!!」


とか。しかし自分は無言&真顔「……」なのである。あまりにも唐突すぎた。しかもある程度信頼を置いている親しい人だからこそショックが大きかった。

これがもし嫌いな人やあまりよく知らない人の発言だったら自分のショック度も異なっていただろう。実際に,ツイッターにおける知らない人の差別多めなツイートだとさほどショックは受けない。

その場で和やかな「空気」を壊してでも異議申し立てをできなかった自分を悔いている。

 

最近観た映画の話ーーイギリスの下層社会

自分の映画の趣味は圧倒的に邦画に偏っていて,洋画はほとんど見ない(タランティーノは例外)。しかし,どんな風の吹き回しか二本の洋画を立て続けに観る機会があった。

 

ひとつめは,絶賛公開中の『わたしは,ダニエル・ブレイク』である。舞台は現代のイギリス。実直に生きるダニエル・ブレイク(主人公)は,心臓の病を患っており,その病が原因で労働ができない状態にある。そうした状態にある人々を救済するのが「福祉」の役割のひとつであるが,役所の煩雑な手続きと制度に阻まれ,ダニエルは給付金を受給することができず,「階段から転げ落ちるように(by 湯浅誠)」窮地に追い込まれていく。善良に生きる(そして生きたい)ダニエルの生を否定するかのように立ちはだかる制度(とそれを体現する役人)に対してとても腹が立つし,なによりやるせない気持ちになる。サッチャリズム以降の福祉の削減というイギリス社会の趨勢に対する問題提起となっており,極めて「社会派」の映画となっている。もちろん現代の日本の社会も多かれ少なかれ,この映画で描かれているような状態にあるということは忘れてはならないだろう。


制度を執行する側からすれば,主人公のダニエルは福祉を利用する国民Aに過ぎないかもしれない。しかしダニエルの生は,国民Aとして書類上で処理されるような事柄に尽きるものではなく,そこにはどの生とも異なる「ダニエル・ブレイク」の生がある。そうした「尽きなく生きる(by 見田宗介)」ことへの表明をダニエルが行うシーンが個人的にはとても熱い気持ちにさせられた。

 

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二本目は,1996年に制作された映画『トレインスポッティング』であり,こちらもイギリスが舞台となっている。登場人物のほとんどがジャンキーというなかなかにハードな映画で,ロンドンで暮らす若者たちの生活が,ポップな音楽とともに描かれる。「まっとうな生活」と「ヤク漬けの生活」を往復する主人公は最終的にどのような道を選ぶのか,といったことが映画の見どころとなっている。あまり長い映画ではないので,登場人物(主に五人の若者)のキャラクターがそれほど詳細に描かれていないことに対して,少し物足りなさを感じたが,それを差し引いてもイギリスのカルチャーの雰囲気の末端が味わえる良い映画だった。

 

なんと今月に続編である『T2 トレインスポッティング』が公開されるそうなので,とても楽しみである。彼らの「その後」はどのようになっているのだろうか。

 

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さて,これら2つの映画に共通するのは,「イギリスの(特に下層の)社会を描いている」という点である。どうやら自分はそうした映画が好みらしい。そこに気付かされた。そういえば『This is England』を観たいと前々から思っていたことも思い出されたし,『時計じかけのオレンジ』にドハマりしたことも思い出した。イギリスの社会史を勉強しつつ,これからもイギリスを舞台にした映画を観ていこうと心に決めた。

 

映画で学べるイギリスみたいな本ないかな。

カンケン、染めちゃいました

リュックの魅力に取り憑かれて早4年。きっかけは「カンケンバッグ」(以下カンケン)を使いはじめたことだった。カンケンはサイズ・デザイン・チャックの位置・値段などが絶妙に良い感じで、そんなカンケンに4年間も甘えてしまった。その結果、自分のカンケンは色あせ、見るも無残な姿になってしまった。

 

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ヴィンテージ感、いや、使い古している感が満載である。全体的に色あせ、縁の部分は白っぽくなっている。そろそろ潮時か。いやしかし捨てるのはもったいない。

 

そうだ。染めてしまおう。

 

すぐさま東急ハンズへ。そこで染料を購入。今回使った染料はこれ。

 

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ダイロンプレミアムダイ(ネイビーブルー)

値段は700円前後

プレミアムダイ | ダイロンジャパン

 

さっそく使ってみましょう。

使い方は簡単。

 

①温かいお湯に「ダイロンプレミアムダイ(染料)」と「食塩」を入れて溶かす

②できあがった液体に染めたいものを漬け込む

③ムラができないよう時々かきまぜる

④染料を洗い流す

 

以上!

(大雑把に書いています。詳しくはプレミアムダイ 使い方を参照してください)

 

作業中の様子がこちら

 

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この状態で半日漬け込みました(取扱書には1時間程度とありましたが)。

 

さて,あの色褪せたカンケンはどうなったのでしょう。

 

左(ビフォー):右(アフター)

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劇的に変わった!というほどではありませんが,全体的に色が濃くなりました。

 

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チャックが染める前の全体部分と同じ色なので,比べてみるとネイビーに染まっていることがわかりやすいかもしれません。

 

満足度は65点。やや成功といったところです。

 

思ったより染まらなかった理由は,カバンの素材です。

 

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(ダイロンプレミアムダイ公式サイトより)

 

カンケンはビニロンフィラメントという化学繊維を使っているらしく,どちらかと言えば,「染まらない繊維」の方に近かったようです。

 

それでもカンケンを染めたい!という方は,以下の「今回の反省点」を参考に試行錯誤してみてください。

 

①もっと温かいお湯でやればよかった!

 →温かい方が染まるらしい

 

②ダイロンプレミアムダイ1袋では足りなかったかもしれない!

 →やはりそれなりの量の染料があったほうが染まるらしい

 

というかそもそも……

 

③「ダイロンプレミアムダイ」ではなく,「ダイロンマルチ」を使えばよかった!

 

プレミアムダイ(今回使用したもの)よりも,マルチの方が,化学繊維を染めるのに適しているらしい。

※その分,取り扱いがプレミアムダイよりも少し面倒になる。

 

dylon.jugem.jp

 

と,まぁ反省点は諸々ありますが,それなりに染まったので今回は良しとします。衣料品・服飾品の色を変えたい!と思った方の参考になれば幸いです。

 

マウンティング・俺らーーマウンティングから脱出することはいかにして可能か

自分は「マウンティング」に興味がある。

「マウンティング」とは,おおまかに,相手よりも優位に立とうとする試みのことを指す。使い古された例で申し訳ないが,「あのバンド売れたんだ~へぇ~(自分は前から知っていたという含み)」などの発話行為がそれにあたる。

上記の例は,「サブカル・マウンティング」と呼ばれるそれに近い。サブカルチャーに関する知識の豊富さによってマウント・ポディションを確保しようとする営みだ。

 

ちなみに「マウンティング」とGoogleで検索すると,真っ先に出てくるのが「マウンティング女子」である。「女性は格付けを行う生き物で~」といったクソみたいなネット記事がたくさん出てきて吐き気をもよおす。「女子の世界はマウンティングだらけで恐いね~w(それに比べ男子の世界は平和だ)」みたいな含みが感じられて極めてファックオフだ。

 

ある時,急に思ったのだが,「女子の世界はマウンティングだらけで恐いね~w」という発話自体が,女性に対する(男性,あるいは名誉男性による)一種のマウンティングになっているのではないだろうか。こうした発話によって「野蛮なマウンティング女子/そうではない平和的な俺ら」という二項対立を構築し,前者(実は藁人形なのだが)を揶揄することによって,後者の「俺ら」が優位に立つ,といった効果がもたらされているのではないか。

 

冒頭で述べたが,自分は「マウンティング」に興味がある。念のため言っておくが,「マウンティング」をしたいわけではない(むしろ避けたい)。「マウンティング」という現象それ自体に興味があるだけだ。

 

しかし,先の「女子の世界はマウンティングだらけで恐いね~w」という「マウンティング」について考えだすと,最終的にその思考の矛先は自分へと向かう。自分は「マウンティング」に言及するという「マウンティング」を行っているのではないか。「マウンティングしてるね~」と語ることによって,マウンティングを行っている人たちよりも優位に立とうとしているのでないか……!

 

“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

ーーいや,ここでは止まらない。

 

〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

ーーまだ,止まらない。

 

「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

ーーまだ。

 

『「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。』と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

〔『「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。』と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〕と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

【〔『「〈“マウンティングについて語ること”自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〉と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。」と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。』と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。〕と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。】と語ること自体がマウンティングになりうるのではないかと思い始めた。

 

……………

………

……

 

我々はマウンティングから自由になることができるのだろうか。

 

ベジタブル・ライフを続けられない僕ら

最近、口内炎ができた。しかも2つだ。毎日、牛丼生活を送っていることによる当然の帰結だと言ってもいいだろう。さらに悪いことに、牛丼生活はその治癒を遅めている。

 

しかしながら野菜を(それも十分な量を!)積極的に摂取するにはコストがかかる。いつもの牛丼セットにサラダをつけるためには100円ちょいを余分に払わなければならなくなるし、100円ちょいを余分に払ったところでせいぜい少量のキャベツが得られるだけだ。

 

そうした状況を打破すべく、自分がとった行動は、野菜ジュースを飲む、というものだ。野菜ジュースはコストパフォーマンスがいい。値段は100円で、牛丼のサラダオプションとほぼ同価格なのにも関わらず、なんと野菜350g相当の栄養が摂取できるという。ちなみに自分が購買しているのはカゴメの「野菜一日これ一本」だ。手軽に購入できる野菜ジュースのなかでは、これが一番栄養価が高い(たぶん)。

 

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さて、野菜ジュースを飲むことによってどのような効果が得られるだろうか。いつも行っている美容室のスタッフは「常飲していたら肌荒れが改善した」という。自分も最近、肌荒れが気になっていたので、そうした効果が得られるととてもありがたい。ついでに口内炎も治したい。そうした効果が本当にあるのか否かはもう少し続けてみなければわからないが、ここでは仮に「効果がある(=健康によい)」としておこう。

 

だとすれば、そうした習慣を続けることが課題となる。何かを続けることは難しい。はっきり言って、自分にはその自信がない。

 

その理由は、野菜ジュースの味......ではない。正直、思っていたよりも味は悪くないし、なんなら少し美味しいとすら感じている。では、なにが問題なのか。

 

例えば、スタバのコーヒーを飲むことが身体に良い効果をもたらすとして、それを毎日飲むことを習慣づけようと思えば、できると思う。なぜなら、端的に言って、スタバのカップを持って街を歩く様子はイカしてる(とされている)からだ。

 

毎日の健康のためにスタバの飲む自分。毎日の習慣なので、ときにはスタバのコーヒーカップを持ちながら街を歩くこともある。街を行き交う人々はそんな自分を見ながら「イカしてんなぁ〜」と内心思い、ツイッターにつぶやく。「今日、街でスタバのカップを持ったイカしたヤング・ボーイを見かけた!」

 

という想像をしながらほくそ笑む自分。これは続けられますわ。

 

しかしながら、野菜ジュースではそうもいかない。みんな野菜ジュースを持つ自分に何の関心も示さない。関心がない以上、認識にものぼらないだろう。アスファルトにこびりつくガムに気づかないのと同じように。

 

お手軽で身体に良いという事実だけでは続けられない。手軽で、身体に良くて、かつ、イカしてるという条件を満たしていなければ自分は野菜ジュースを飲み続けることができないのではないか。

 

では、「野菜ジュース=イカしてる」という枠組みが世に広まればいいのか!そうなれば野菜ジュース生活を続けることが可能になるのか!

 

今までの話の流れからは当然そうした帰結が導きだされるが、そうは問屋がおろさない。多分、自分は「野菜ジュース=イカしてる」という風潮になっても野菜ジュースを飲み続けることはできないような気がしている。

 

先のスタバの例に戻ろう。現時点において、スタバのカップを持って歩くことはイカしてるという風潮はある。しかし、自分はスタバのカップを持ちながら街を歩くことはしていない。なぜか。単純な理由だ。それは「スタバのカップを持つこと」が逆にダサいと感じてしまうからだ。スタバでMacBook開いてドヤ顔(笑)というふうに嘲笑する言説が一時期流行したが、それと同じ感性を自分も(悔しいけれど)共有してしまっている。要するに、「イケてる」と思ってやっていること(特にそれを気合い入れてやっていること)、こそがダサい、という逆張りのメンタリティを悲しきかな自分も身につけてしまったのだ。以前、とある男性ファッション誌で、大学生のモテるための小技特集的なやつが組まれていた。そこでモテ・テクニックとして例に挙げられていたのが、スタバのカップを持ちながら登校だった。自分はそれを見てダッッッサ!と正直思ってしまった。

 

多分、野菜ジュースがイケてる世の中になってもこうした逆張りのメンタリティは発揮され、野菜ジュースを素直に飲み続けることはできなくなってしまうのだろう。結局、野菜ジュースを飲み続けることはできないのだ。どうすればいいんだ......口内炎が痛い........

 

 

 

 

 

 

「クラスTシャツ,その後」を生きる

明け方,いつものようにダラッと過ごしていたら急にある単語が脳内をかすめていった。「クラスTシャツ」である。なぜ高校を卒業して何年も経った今,急にこの単語を思い出したのか理由は定かではないが,少なくともこの単語は一瞬で自分の感情を激しく揺さぶるという効果を発揮した。「クラスTシャツ……」。口に出してみるとより鮮明に過去の出来事が脳内にフラッシュバックした。それは中学・高校の懐かしい思い出ーー思い出してほっこりする――というよりも,あまり思い出したくなかったタイプのそれに近い。いわゆる「黒歴史」というほどのものではないが,なんとなく積極的に想起することを避けたくなるような性質のものだった。もうすぐ日が昇ろうとしているのに自分の心はどんどん沈んでいった。いや,正確には酷く動揺した。急に眼前に姿を現したこの単語に対して,どのようなスタンスで対応すればよいのか全くわからなかったのである。とにかく落ち着こうと思い,温かいお茶を飲みながら深呼吸をした。すると幾分か平常心に戻ってきた。しかし,まだ心がザワつく。そのザワついた心をさらに安定した状態へと引き戻すために,文章化してしまおうと思いついた。一歩引いた視点から対象化し,観察し,記述すると,あら不思議。まるで他人事のかのように思えてくるのである。現に,ここまで書いてだいぶ気持ちが楽になった。しかし,なぜここまで自分は酷く動揺してしまったのだろうか。

 

クラスTシャツとは,体育祭や文化祭の際にクラスの凝集性を高めるために作る,言わば「そのクラスのユニフォーム」だ。全国各地,どの学校でもそういった文化があるかどうかは定かではないが,少なくとも自分の通っていた学校では毎年,各学級で「クラスTシャツ」を作ることが恒例となっていた。それぞれのクラスでどのようなデザインにするかを話し合い,案がまとまったら業者に発注する。そして数日後,完成品がクラスに届く。それをイベントの際などに着用する。具体的なデザインは各学級によって異なるが,大体のクラスは背面にクラスメイト全員の名前をプリントしていた。

 

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※イメージ

 

もれなく自分のクラスもこのようなデザインだった。クラスの担任の名前に「組」という接尾語をつけて「〇〇組」とプリントしたデザインも多かった。例えば,担任の名前が遠藤だったら「遠藤組」という風に。

 

しかし,冷静に考えてみて欲しい。今だからこそ言えることだが,クラスTシャツのデザインはもれなくダサい。背面にクラス全員の名前がプリントされていることが当たり前のように受容されていたが,よくよく考えてみるとこの発想はとてもダサい。そんなにダサいか?と小首を傾げた人もいるだろが,これをバンドTに例えて考えてみて欲しい。例えば,現在人気沸騰中の[ALEXANDROS]のバンドTシャツの背面にメンバー全員の名前がプリントされていたらどうだろうか。背面に,「川上洋平 磯部寛之 白井眞輝 庄村聡泰」「We love ALEXANDROS」とプリントされているバンドTシャツだ。せっかくのイケメンバンドが台無しである。こんなバンドTシャツは物販で売れ残るどころか,バンドのファンも離れていくだろう。

 

よくあるデザインとして例示した「〇〇組」もまたダサい。意識されていないだろうが,どう考えても暴走族やヤクザ屋さん的な美意識からインスパイアされた感がひしひしと伝わってくる。担任の名前が「〇〇組」と背面にプリントされた服を着ている多数の生徒の姿を思い浮かべて欲しい。他の「組」と争う遠藤組(仮)。後ろでは担任の遠藤先生(仮)が体育祭を見守っている,というか糸を引いているようにしか見えない。もはやヤクザの抗争である,というか担任は遠藤憲一である。

 

加えて,自分の具体的なエピソードもここに挿入しておこう。それは自分が中学1年生の頃――クラスTシャツ初体験――の記憶である。当時,中学1年生だった自分のクラスでは,例の如くクラスTシャツのデザインを決める学級会が開かれた。しかし,クラスTシャツのいろはもわからない我々の話し合いは困難を極めた。どのようなデザインにすればよいのか。成員に共有されたテンプレートが不在なゆえ,各々の思い付きが羅列される。そのような状態だったと思える。やや苦しい状況の中,多数決に多数決を重ねた結果,なんとか意見がまとまってデザインの大枠が見えてきた。話し合いも終盤か,といったタイミングで少し変わったアイディアがとあるクラスメイトから出た。「Tシャツの側面にも文字を入れませんか?」。

 

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Tシャツの側面とは上の図の赤く囲った箇所である。今考えてみると少し変わったデザインだが,当時は特段,違和感は覚えなかった。しかし,恐ろしいのはその後である。

 

「入れる文字は,我等友情永久不滅でどうですか?」

 

今,こんなアイディアが飛び出したら鼻で笑われ,一蹴されるのが関の山であろう。もし,友人の誕生日ケーキを買いに行った際に,店員さんが「我等友情永久不滅って書いておきますね~」と言われたら全力で止めるだろう。しかし,当時は誰も止める者がいなかった。止めようとも思わなかった。結果,自分の初めてのクラスTシャツ(ちなみに黒地)の側面には白い字で「我等友情永久不滅」とプリントされることとなった。20歳を過ぎた今だからこそ言えるが,ひどくあり得ないデザインだ。もはや暴走族の特攻服的なソレである。

 

 

背面には全員の名前

 

担任の名前を入れた〇〇組

 

そして側面は「我等友情永久不滅」

 

 

これをダサくないといえるだろうか。クラスTシャツはダサイ。しかし,なによりも重要なのは,このダサイものを自分は過去に何度か着用しているのである。特段,ダサイとも感じることなしに。その過去は消せない。このことが自分を酷く動揺させた一因となっているのだろう。

 

ここで話を終えてもいいのだが,もう少し「クラスTシャツ」の話題に付き合ってほしい。今までの話は「当時の僕らとクラスTシャツ」であり,言うなればプロローグである。「クラスTシャツって今考えるとデザインはダサイよね~」くらいの話であれば,それは全然,当時のクラスメイトたちとともに語りうることであり,なんなら楽しい笑い話だ。

 

実は,「クラスTシャツ」が真価を発揮するのはこの時点ではない。以下に書き連ねる文章は「クラスTシャツ,その後」である。この局面において「クラスTシャツ」はその存在感を発揮すると,個人的には確信している。そして自分は「クラスTシャツ,その後」への想像力によって,心をかき乱されたのだ。

 

さて,当時何度か着用したクラスTシャツのその後はどうなるのだろうか。

 

クラスTシャツ,その後のパターンとしては経験的に以下の3つのパターンに分類 できる。

 

①処分 ②積極的保管 ③消極的保管

 

それぞれ説明していこう。まず「①処分」であるが,他の着用しなくなった服と同じようになんらかのタイミング(例えば大掃除)で捨てられることを指す。自分は,このパターンに当てはまるのだが,その瞬間を今でもよく記憶している。ふいに衣類ケースの奥から現れるクラスTシャツを目の前にして,自分はどのような表情でそれを捨てればよいのかわからず,少し困惑してしまった。他の衣類とは異なり,当時のクラスメイトの名前が大量にプリントされたTシャツ。側面には例の「我等友情永久不滅」の文字が。その時に自分はすでに高校を卒業し,こうしたデザインがダサイとすでに気づいていたので,処分以外の選択肢は浮かばなかった。しかし,クラスTシャツを捨てるということは,過去の価値観と完全に決別するという意味合いが生じる。過去の価値観との決別を明示的に行うことがクラスTシャツの出現によって強制されている,自分はクラスTシャツに試されている,これはまさに踏み絵の瞬間だ,と自分は直観的に感じ取った。息を整え,クラスTシャツを掴み取り,「エエイ!」とゴミ袋のなかに突っ込んだ。だが,半透明なゴミ袋はその中身を完全には隠さない。ゴミ袋の中に入った数枚のクラスTシャツがこちらを見返していた。なるべくそれを見ないようにし,自分はゴミ袋の口を結び,ゴミ捨て場に持っていった。こうして,自分は過去の価値観と完全に決別した。

 

こうした状況はきっと自分に限ったものではなく,クラスTシャツを着用したことがある人のほとんどが経験したものであろう。その時,みんなはどのような表情をしてクラスTシャツをゴミ袋に突っ込んだのだろうか。過去の価値観と一人で向き合うその瞬間。その時の人々の表情や気持ちを想像すると,とてつもなく心がザワつくのだ。

 

「②積極的保管」について説明しよう。たとえ,タンスの奥からクラスTシャツが出てきたとしても,すべての人が上記したように処分するわけではないだろう。むしろ,取っておこう!と考える人も一定数存在するのではないかと推察される。こうした行動をとる人たちは「①処分」のように過去の価値観を転換するのではなく,それを肯定していく。結果的に,積極的にクラスTシャツを保管するという行動になる。しかし,自分にはこのパターンに対して懸念がある。例えば,夜のコンビニで偶然にも積極的保管者と会ってしまい,さらにはその人がクラスTシャツを着ていた場合,自分はどんな顔をすればよいのだろうか。間違いなく,一瞬,顔が引きつってしまう。自分が捨てたものが目の前に不意打ちのように現れるのだ。捨てたはずの日本人形が枕元に現れるという怪談の王道パターンか。もっと近しい例を挙げるならば,マンガ『ハチミツとクローバー』で野宮が(自分がとうに脱ぎ去ったはずの)「青春スーツ」を着て現れる真山に対して嫌悪感を感じるという構図とも似ている。「青春スーツ」とは概念であり,直接的には観察不可能なものであるのに対して,「クラスTシャツ」とはまさに「青春スーツ」が実体化したものであり,否応なく視界に入ってくるといった点で,より性質が悪い。こうした可能性について考えてみても,自分の心はザワつくのだ。

 

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 ハチクロにおける「青春スーツ

 

最後に「③消極的保管」について述べる。これは,クラスTシャツの存在を完全に忘れており,いまだにタンスの奥にクラスTシャツが眠っている,すなわち消極的に保管されてている,といった状態を指す。このタイプについては,特に何も感じないかと言えば,そんなことはない。今はこのタイプに分類されていようが,いつかは(それがいつになるかは人それぞれであるが)①か②を選ぶ瞬間が訪れる。そのときどちらに転ぶのか。そうした決断を先送りにしている潜在的な層として,③は存在している。③のタイプのことを想像すると,「いつか必ず人はクラスTシャツと向き合わねばならない」ということが逆側から照らされ,より心がザワつくのだ。

 

結局,「①処分」であろうが,「②積極的保管」であろうが,「③消極的保管」であろうが,人は「クラスTシャツ,その後」を生きている。クラスTシャツと関わることは避けられない。こうした文章を書いた自分は,よりそうした関わりを強く意識しながら生きていかねばならないといった状況に陥ってしまった。決別したはずのクラスTシャツの亡霊を背負いながら毎日を生きていく。もしかするとこんな文章を読んでしまったあなたもクラスTシャツの亡霊に取りつかれてしまったかもしれない。とりあえず,タンスの奥底を確認してみましょう?話はそれからだ。

近所の人たちのこと

近くのコンビニに行ったらサンタの帽子をかぶっている人がいた。20代くらいの男性でアイスのコーナーを物色していた。今日は12月24日。「クリスマスではしゃんでるだな」と一瞬思ったけど、よくよく見たらモスバーガーの制服を着ていた。

 

うちの近くには毎晩通るたびキャバクラ(だと思われる)の客引きのお姉さんが立っている道がある。男性が通るたびに「今,お暇ですか」的な声かけをやっている。お姉さんには悪いが,自分は毎晩通るたびに無視を決め込んでいる。そして他の通行人も無視を決め込んでいて,お姉さんがお客のキャッチに成功した場面を見た試しがない。けど毎晩立っている。

 

どこの近所にもケータイショップがある。もちろんうちの近くにもある。まだ数えるほどしか利用したことはないが,なぜか毎回特定の店員さんにお世話になっている。一応スーツを着ているがどこかチャラい,言うなればホストっぽい雰囲気のお兄さんだ。そして,自分がよく行く喫茶店(パン屋?)でもそのお兄さんをよく見かける。死んだ目をしながら煙草をふかし,ソシャゲをやっている。

 

近所にスターバックスドトールの両方があることはとても恵まれていることなのだろう。自分はドトールのほうによく行く。すると,毎回同じおじさんと出会う。そのおじさんは,端的に言うと「ヒッピー」みたいな恰好をしている。そしてマリファナの柄がプリントされたタバコケースからタバコを取り出し,火をつけている。中身はラッキーストライクで間違いないと思う。

 

 

自分はその人たちとーー実際におしゃべりをしたことはないけどーー同じ街で暮らしている。